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休日の過ごし方

澤 隆之
澤 隆之
(株)アイランドプランニング

 コロナ禍で私たちの生活は一変しました。世の中は自粛だらけです。新幹線や飛行機を使った旅行なども簡単にはできない状況だと思います。
 その影響でのアウトドアーブーム。キャンプ場は満員。自然を求めて行った場所が人混みだったりということも多いようです。
 都会では通勤手段の変化で、自転車やバイクが見直されています。その影響を受けてか、バイクブームの再来だそうです。
 私も趣味の一つとして、バイクでのツーリングがあります。オープンエアーで、人の少ない隠れたスポットを探し出かけていきます。

img-02-002.jpg  バイクに乗ると、危険だとか言われます。夏は暑いし冬は寒い、雨の日は濡れ、風が強いときは流されます。まさに苦行です。どうしてそんなバイクに乗り続けるのかと思う時もあります。風を感じて走る、気ままな旅ができるなど、ひとつでもバイクに乗る理由があれば良いのです。

img-02-003.jpg  ツーリングには二種類あり、マスツーリングと呼ばれる大勢で出かけるもので、ルートや休憩場所など予め決めておき、スケジュール通りに行うもの。また、ソロツーリングと呼ばれ、一人で自由気ままな旅を行うものとあります。私の場合、マスツー3割ソロツー7割程度です。
 ソロツーではナビで案内してくれないような酷(国)道や険(県)道を通ることもあります。四国はそのような道が多く、国道439号(よさく)や香川徳島県道3号109峠などは難所として全国的に有名です。車では通行できないような脇道や峠越え、街中の路地裏散策など機動性が生かせます。

img-02-004.jpg  旅好きな人が必ずと言っていいほど目指す場所は最南端・最北端・最高地点等の端っこです。本土16端(本州・北海道・九州・四国の四端)のうち10カ所までは到達できました。また国土四端は択捉島・南鳥島・沖の鳥島など民間人が立入禁止の場所もあるので、到達可能な 北海道の宗谷岬・納沙布岬、沖縄の与那国島・波照間島も訪れてみたいです。

img-02-005.jpg  道路標高日本一は乗鞍ですが一般車両は乗入禁止です。国道最高地点の志賀草津道路渋峠やJR 鉄道最高地点の野辺山は訪れることができました。

img-02-006.jpg  また天守閣や神社仏閣など国宝や歴史的建造物も訪れることが多くなりました。現存12天守も11カ所訪れることができ、残るは弘前城のみです。戦国武将の相関関係など歴史と合わせて見るもの面白いです。神話に出てくるような場所も興味をそそられます。高千穂といえば天孫降臨の場所として有名ですが、九州には二カ所あります。天の岩戸も全国に十数カ所あります。それぞれの地で伝承を読むのも面白いです。

img-02-007.jpg  地理や日本史など、数十年前に習った事を思い出し、また新たに調べたりして予備知識を持って出かけると、充実した旅になります。
 私が愛用している地図にはその地方のグルメ紹介も有ります。世界的に有名なガイドブックとは違う切り口での紹介です。また休憩がてらSA や道の駅で変わり種ソフトも食します。バッタソフトや牡蠣フライソフトは食べるのに躊躇しましたが、普通に美味しいです。
 ガイドブックやパンフレットにある風景写真は晴天に撮られたものが多く、それを期待して行くと霧で何も見えなかったり、交通規制で近寄れなかったり。リベンジ案件として次回に期待します。

img-02-008.jpg  地図や写真で見た目的地に辿り着き、そこに佇んで風と音とを感じてみる。ひと時でも贅沢な時間と空間を体感できれば、明日への活力となります。気力と体力が続く限り私の旅はまだまだ続きます。

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四国の山々をトコトン登り続ける

高岸 雄三
高岸 雄三
(株)高岸工務店一級建築士事務所

■標高1955mの四国剣山にはじめて登ったのが昭和38年(1963年)夏、翌年石鎚山(標高1982)。以来約60年近く山歩きを続けてまいりました。
 若い頃は全国各地の山々なかでも中部山岳などの標高の高い山々へ数多く登っていましたが、そのうち自然豊かな四国の山の良さに気づき、いまではすっかり四国の山なみにどっぷり浸かって楽しんでいます。
 そうして若い頃から現在まで数えてみたら累計で約2000日、四国の山だけでも千数百日以上も山歩きをしてきて、一番登頂回数の多い三嶺(1893)にはもう700回をこえて登っています。

(1)山を楽しむ さまざまな道
■各地には高い山低い山、 険しい山穏やかな山、 奥深い山、 手軽に登れる山から難しい山まで様々な山がたくさんあり、都市近郊の低山には毎朝散歩する人が大勢いて、連休には日本アルプスの著名な山は多くの人々で賑わっています。

img-01-002.jpg ■山歩きは標高の高低、遠くの山、近くの山、所要時間の長短、難しさの度合などいろいろあっても、ひとそれぞれの体力・技量にあわせてコースを適切に選択すれば 幅広くどなたでもどこででも気軽に楽しむことができます。

■山歩きはなにも山頂をめざすだけではありません。
 山麓から健康ウォーキング、山岳探訪、写真撮影、植物観察、昆虫動植物観察バードウォッチング、動物・植物撮影鑑賞、天体星座観察、山菜採取、渓流釣り狩猟・山岳巡礼修行、森林浴、キャンプ、 山小屋宿泊などもあり、きわめて多様に山の楽しみ方が選択できます。山で仕事する林業の方もいます。
 登るだけでなくても健康・レジャー・物見遊山・仕事、それぞれ違った山との接点で山へのかかわり方も様々です。ひとそれぞれの流儀や登り方があり様々な山との関わりがあるというのはそれだけ山登りは間口が広く、奥が深いということです。

■スタンプラリーのように全国著名山「百名山」ピークを巡るだけでなく、流行に踊らされずもっと山を楽しむさまざまな我が道をいく方法がいくらでもあるのです。

(2)我が道は やがて四国の山へ
■ふり返ればはじめは何もわからず体力任せでたんにがむしゃらに登った若い頃は今思えば周りの景色も気にとめることもなく馬車馬のような登り方でした。

■まだ行ったことのない山知らない山域や 行ったことのないルートに行きたくなるのは「未知への憧れ」で、いわば、旅のような登山、山旅というものです。
 山のおかげで全国いろいろな山域に足を踏み入れて、一通り体験して見聞を広めることができましてふりかえればとてもよい旅の思い出となっています。
 長い年月を登り続けているうちにやがて体力任せでなく地元四国の山の山歩きを年齢相応のマイペースでじっくり味わい、楽しみながら登ればより深い感動をえられると次第に思うようになってきました。

■まわりまわってみたら実は「青い鳥」が近くにいるように年月を経てただ無闇に歩くだけでなく四国の山の自然の豊かさを、じっくり味わうことのほうが大切だと気づきました。
 四国の山に腰を据えてしっかり対峙して やっと四国の山をより深く満喫できるようになって、四国の山のよさを、さらにより深堀して頻繁に通いながら四国の山なみにすっかり気に入ってはまりこんでいきました。

img-01-003.jpg (3)毎回 ちがった 山の表情にであう
■同じ山域で同じ場所でも登る度毎に異なる表情をみせてくれる山の奥深さ。
 同じように見えてもより詳しく見れば毎回 天候は違うし木々、草花植物鳥や昆虫、生物も毎週毎週さまざまな表情変化を見せてくれその都度新たな大きな感動を与えてくれます。
 前週蕾だったのが今週咲いている花。春夏秋冬の季節の変化に合わせて小鳥のさえずりも種類も鳴き声などや、さまざまな動植物昆虫などや、木々の具合は毎週ごと微妙に変わってきます。
 足繁く通っていれば変化の移ろい具合がより鮮明になりさらに詳しくわかってきます。
 山が見せる千変万化の表情はどれも旬な時期は本当に一瞬で、まさに自然との一期一会の出会いなのです。

■さらに単年だけの季節変化にとどまらず昨年より今年は雪が多いといった過去の年と比べての経年変化も感じることができ楽しみがぐっと増えます。
 今秋は紅葉が昨秋より綺麗だとか、年ごとのわずかな変化もわかり、場所により、時期、時刻により本当に微妙な変化のある紅葉。裏年、表年どころか何年ぶり何十年ぶりの目をみはるような見事な紅葉にも巡りあうこともあります。

■一年ごとの小さな変化もやがて何十年を経過すればとても大きな変化になってきます。
 背丈を超す深い草木に覆われていた山稜が 植生の変化で足首程度にまで衰退したり、小径の木々がいつのまに太い立派な気に成長して深い森になったりします。
 同じ山域に長く通っていると山域全体の植生の変遷というような、自然の遷移にめぐりあえるのです。

■川の流れもおなじではありません。
 同じようにみえても前週の流れとは違う谷川の流れ、小川のせせらぎ、雨で増水した川、カラカラ天気で枯れ気味の小川。詳細に見れば同じ川の流れはありません。
 川の微妙な変化は過去の天候の履歴とか山の保水の変化によることで山がまさに活きている証拠なのです。
 高い標高の山稜を歩きながらかすかに遠く谷底からの沢音を聞き谷川の流れを思い描くのはとても楽しいものです。

■山鳴りのような風の音も大きい小さいとか、風向きなど風のパターンにより風に揺らぐ木々植物の音などの違いもわかってきて興味深いものです。
 一日の時間帯で変わる微妙な風向き風の強さもあります。
 まだ暗いうちから鳴く野鳥にはじまり一日のうちで微妙に変わる鳥の動き、季節に応じて変化する鳥、カジカ、セミ、スズ虫などの生き物の音、咆哮音、山中でえられる聴覚情報は本当に心地よい山の交響曲なのです。

■毎年その時期になると通常おこりうる事象とはちがい、何十年も長く通っていてはじめて何十年に一回の確率で遭遇するようなきわめて珍しい事象、本当に驚くような気象・天文現象、動植物の生態現象に偶然遭遇することがあります。そのときは自然の神秘という奥深さにあらためて驚かされます。

■何十年ぶりの巨大台風が襲来すれば川筋が一変してしまう渓谷。倒木で足の踏み場もない所もできてしまいます。
 山稜では凄い風圧で横に押しつぶされてしまった植物などをみて改めて自然の驚異を思い知らされます。
 それらも幾星霜を経て自然の回復力、復元力なのでしょうがやがて元通りの静かな渓谷や森林に戻っていくさまは本当に感動モノです。

■昭和56・59年頃の豪雪の冬。トラックの荷台に背丈以上高く、民家軒下まで達する豪雪量を見てここは南国四国か?と驚いたこともありました。

■が、人間の側には 驚くばかりのことでも自然の側からすれば何ら不思議なことでなく通常の変動の枠内のことで、気がつかないのは人間がただ単に無知だけのことで、自然は何事もないよう泰然としています。

■四国の山にはこうした素晴らしい自然が本当にたくさん残っていて、まさに二度と同じ情景に出くわすことのない悠久の自然が見せてくれる千変万化の奥深い表情にであうことができて奥深い四国の山で山登りができる幸せをつくづく感じます。

(4)心ここにあらざれば、みれどもみえず
■自然の長い間のゆったりした変遷に比べたら、ひとりの人間はほんのわずかの期間でしか山に接する事ができません。人と自然との出会いは一回一回の一期一会の出会いで、そのワンチャンスを本当にしっかり大事にしていかなくてはなりません。

■その山の面白さをより深く味わいながら山を永く登り続けるには人間のほうもそれなりの 心構えが大切です。
 少しでもいい写真を撮ってSNSにて皆に自慢してみよう、スタンプラリーのような著名山など数多く登って自慢してみよう、過激用語「リベンジ」とか、などの雑念は私には無縁です。

■「心ここにあらざれば、みれどもみえず」
 ありがたいことにこうして自分はいま山に登らしてもらいますという山から教わる謙虚な気持ち。
 謙虚さがないと、山では見えるものが見えません。自然が見せる数多くの表情に接することができずちょっとした変化にも全く気がつきません。

■山は登らせてもらっているという謙虚さが大切です。
 感謝の気持つねに謙虚さを持ち続けて無欲な心で焦らず慌てず奢らず侮らず、謙虚な気持ちをもって接するといままで見えなかったことが数多く見えてきます。
 自然の宝物は謙虚さのもとでこそ目の前に広がって見えてくるのです。
 高い低いどんな山でもまず無心・無欲で山に向かう素直な気持ち、山から教えをもらうという謙虚な姿勢こそが一番大切です。

■謙虚になればなるほど今まで気がつかなかった新たな植物・動物・地形・自然などがまたあらたに見えてきます。
 一つ知れば次々にまた知らないものの存在に気がついていくのです。こうして知らないことが連鎖的に、どんどん広がっていきます。
 満天の星空で無数の星が目には見えても知っている星座はほんのごくわずか。
 いつもよく通うところに絶滅危惧種が存在しているのでさえ全く気づかず最近まで見逃すぐらいで、いまだに全然何も分かっていない、まだまだ知らないことばかりなのです。

■時間はかかるだけかかる
 山登りでは所要時間は本来かかるだけかかります。
 コースタイムとかいう標準所要時間など気にしてせわしく追われたような気忙しさのなかで登っていては本当の山が見えてきません。
 時間を気にすることなく貪欲に自然との接する時間をつかえば使うほど山中での楽しみも間違いなく増えますが、またたくまに光陰矢の如く時間は過ぎていきます。
 無理のないようにほどほどの安全な行程で帰着したいものです。
 万がいつ遅くなれば「夜道に日暮れなし」の気持ちでいればいいのですが、やはり、念のためにヘッドランプの携行は安全上 必須です。

(5)山村の急速な変容
■自然は悠久で、ゆったりと静かに進むのに比べ、人間側の山村社会のほうは急速に過疎高齢化が進んでいます。
 山里の昔ながらの狭い道路も長い年月をへて拡幅改良舗装されて道路交通は便利になりましたが、外から入るのも楽になると同時に、山里の人が外に出ていくのも容易になり、むしろ山村から若年者の流出がふえて山村の住民は高齢化しました。

img-01-004.jpg ■むかしの山里では盆や年末年始には県外からの帰省で賑わっていて、このときは山村の集落は県外ナンバーなどの帰省車で溢れかえり、山里のお盆の夏祭りも何日間も続き都会から戻った若い帰省者で山里は活気に満ちて大いに賑わっていました。
 いまでは夏祭りも一日だけの開催ですが県外から帰省する人もめっきり少なくなりとても寂しくなりました。

img-01-005.jpg ■ゴールデンウィークの時期には都会から親族が孫をつれて帰省するというので山里では祖父母が鯉のぼりを掲げて孫を歓待していたものでしたが、そのうち孫も成人したのでしょう。連休時期になっても山里の鯉のぼりはもう見かけなくなりました。

■山村の集落を通り抜けるときここではこの車あの車といつも見慣れていたはずの駐車車両が、いつのまにか見かけなくなりなり、山村の人口は激減しています。

■山里の過疎高齢化が進行し都会へ出ていった出身者が帰省しようとしても元の家がすでに廃屋になってしまっているのです。

■集落では廃屋が目立ち、真新しい墓石が増えましたが、いまでは新しい墓でさえ草木に埋もれてきています。

■かつて山間地を支える主力産業だった林業。かつての林業従事者は、すでに高齢にて引退しています。
 今よく見かけるのは補助金による間伐伐採で、地域外伐採業者の手で、補助金シールつきの高性能林業機械を使って行われていて、本当の山村活性化にはつながっていません。

■山間地での主力産業であった土木工事業も仕事が少なくなって業者の数は半減。放棄された土木資材置場、生コンプラントが目につきます。
 住人が住んでいるところでは地すべり対策などの防災事業も焦眉なのでしょうが、廃屋ばかりの山間地では防災対策工事も急ぐこともなく残念ながら後まわしになるのでしょう。

■その昔山里の集落で夕方、「かまど」の煙が各所から立ちのぼる光景は本当に情緒のあるものでした。
 やがて燃料革命なのか、奥深い山村にも出現したLPG ガスボンベ。
 山奥深いところまで巡回収集する4WD のゴミ収集車。
 廃校になった地区からの生徒の通学ためのスクールバス運行。
 どれも山深い山村で見始めたころは驚きでしたが、そのうち山間地でも普通の見慣れた光景になり、やがて廃屋がふえ、ゴミ収集車も出番が少なくなり、スクールバスに乗る生徒さんも激減しました。
 小学校の秋季大運動会が校区ごとに行われ、地区住民あげての大きなイベントで生徒・住民ともに大いに盛り上がっていましたが、そのうち生徒数の減少で小学校は廃校になりました。

(6)山里の皆様のおかげ感謝です
■冬雪深い山里でも人家のあるところまでは自治体などの道路除雪サービスがありますが、それでも、降雪直後家の前の道路をまだ暗いうちからモクモクと雪かきする山里の地元の方々には本当に頭が下がります。
 ここまで、とても長く山登りできてきたのもつきつめると山里の地元の皆様のおかげで登らせて頂いただけのことです。山村の皆様に改めて深く感謝する次第です。
 その山里が昨今大きく変容し先行き大変心配する状況なのです。

■悠久の自然の流れと比べ人間側の山村の変容ぶりはあまりに急激ですが、深い自然の山には豊かな自然の貴重な宝物がいまでもしっかり詰まって残っています。
 現下の山村の課題の解決には相当な時間がかかりそうですが、いずれまた、素晴らしい自然の豊かさという大切な宝物がいっぱい詰まっている山里の素晴らしさが、再認識されて山の宝物が光り輝く日がきっと来るものと固く信じています。
 それまで自然の悠久の営みのなか現状を謙虚に受けとめて、これからもずっと四国の奥深い山々にトコトン通って、山村の行末を按じながら見守り続けていこうと思っています。

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協会と日事連

富岡 學
富岡 學
(有)富岡建築研究所

 香川県建築士事務所協会(協会)が創立50周年になりました。正会員・賛助会員の皆様方の協力のおかげです。私が協会の仕事に携わったのは平成7年第20回建築士事務所全国大会香川大会で三島会長の元、県民ホールで手伝いをしてからです。平成8年に理事に選任され平成20年から30年まで会長を務めさせていただきました。

img-01-002.jpg  協会は、日本建築士事務所協会連合会(日事連)に所属し、私は平成22年に常任理事として広報・渉外委員会の委員長と会誌編集専門委員会の担当に選任されました。前年度の会長会議で、当時の会誌の内容・カラー等の体裁について再検討が必要である、と発言した事によるかも。会誌の編集委員長と企画編集人が替わり、平成23年4月号から会誌の名称が「Argus-eye」から「日事連」に変更され内容も変更されました。残念な事に変更後まもなくして企画編集の城市創さんと委員長の森野美徳さんが亡くなりました。日事連では、総会・会長会議で常任理事が担当委員会の業務報告をします。
 平成26年に副会長に選任され、担当は広報・渉外委員会でした。副会長は常任理事会に先だって正副会長会議を行ない、忌憚のない意見交換をして常任理事会に臨みます。
 常任理事会・理事会・委員会は八丁堀にある日事連で行ないます。私は150回余り日事連へ行きましたが全て日帰りです。始発便の飛行機で往き、最終便で帰りました。副会長として懇親会に出席した時は寝台特急「瀬戸号」で帰りました。日帰りでも会議の前後で3時間位は自由散策が出来ました。スカイツリーが「生コンクリート工場発祥の地」とか、渋谷スクランブル交差点背景のコンコースの岡本太郎の壁画「明日の神話」とか、皇居半蔵門近くの英国大使館前の歩道は昔から未舗装のままであるとか、参考資料の探索は尽きません。

img-01-002.jpg  昭和41年開館の竹橋のパレスサイドビルは皇居を眺望出来る屋上緑化テラスがあり、イサム・ノグチが使った庭石があります。床から天井までのガラス、地下鉄の駅と直結等、現代建築のはしりで昔から好きな建物です。
 平成25年第37回建築士事務所全国大会三重大会は伊勢神宮式年遷宮に合わせて行なわれ、「お白石持」行事に参加。平成25年中四国ブロック協議会は香川県が幹事会で、三栖邦博日事連会長を四国村、イサム・ノグチ庭園美術館に案内しました。(株)日建設計の社長・会長を歴任された三栖会長から、百十四銀行本店を見てきた、と聞いた時は感動を覚えました。
 平成19年には山上紀麿協会会長と福本富雄賛助会会長のもとで賛助会組織強化がなされました。情報交換、請負者との協力関係を強固にし、仲間意識を持ち、協会の会員増強を異種交流で設計事務所をアピールします。
 県の営繕課との意見交換会では、県と高松市で取扱いが異なっていた法第6条等における別棟の扱いを統一してもらう等がありました。
 これからの香川県建築士事務所協会を若い人達にゆだねたいと思います。

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・・・防災・減災・・・

遠藤 孝司
遠藤 孝司
(有)C・I建築設計事務所

 近年、台風・大雨など100年に一度あるか・・・ないかの非常にまれな自然災害が毎年のように発生しています。
 平成23・3・11日に発災した東日本大震災で児童74人が犠牲になった大川小学校の件では、最高裁で事前防災の不備が問われ、市に法的責任があると判断をしました。
 我々、建築士が災害が発生した場合、自己の被災を除いて、対応出来る事は・・・!
 *直ちに、立ち上げたいのが「応急危険度の判定」活動
 *次に被災者支援として、「罹災証明発行の援助」活動
 *仮設住宅の建設の援助活動, 復興支援・・・等が有ります。
 平成28・4・14日と16日に発災した「熊本大地震」での、香川県建築士会会長として体験した事例から、改めて「防災・減災」を考えてみたいと思います。
 発災後4/17日より、まず行政官による「危険度判定」作業が始まりました。私は近県の建築士会の動向と香川県担当者と民間判定士の派遣要請について聞き取りを行っていました。建築士会の通常業務は一時中断しました。
 民間判定士の派遣については、被災現地の受入体制の事も有って・・・4/21日に士会連合会より「派遣要請があった場合の人数把握をするよう」要請が有りました。
 救援の状況が連合会のHPで掲載され始めると会員からの問合せもありましたが、4/22日には中四国の行政幹事県(広島)からの情報がないので、香川県として、今は要請できないとの事。要請があれば士会として即、動きますので躊躇なく知らしてほしい旨伝えて事務局に引き返しました。その夕方・・県から連絡が有り、日本建築防災協会から費用面のバックアップが決定し、4/28日~5/ 2日の予定で民間判定士の派遣要請が整ったとの事。
 しかし・・・
 士会を預かる者として、現地までの交通手段は、宿泊地から調査現場への足は、判定士の保険は、等を確認しなければ会員を派遣する事はできません。県担当者は保険以外は全て士会の方で手配をしてくださいとの事。
 混乱している現地での宿泊施設の確保は困難を極め、交通手段はJRを検討し、最寄りの駅は・・レンタカーの手配は・・?
 建防協に問合せをし、バス等のチャーターでも可の確認し、手配をしたが・・連休の真っ最中、バス会社は全て予約でいっぱい。市内の小規模の観光会社が事情を理解してくれて、ようやく小型バスを手配をしてくれました。
 宿泊施設も難航し、ビジネスHで二段ベットの部屋を確保できました。4/26日に正式に浜田知事よりの出動要請と共に高速道の通行書を受取、現地からは宿泊・食事の準備は有りません・・調査業務は熊本市外の市町村になるようです。
 この条件で4/28日に判定員10名で高松を出発しました。(中四国9県で約80数名の派遣だったと思います)
 5/ 2日には一部軽い負傷者が出ましたが、全員無事帰高しました。
 私は、連休明けに連合会でご一緒した先輩が熊本市内にいるのでお見舞いを兼ねて、現地へ出向きました。
 先輩の案内で、被災地の状況を知りたくて熊本県庁へ参りました。
 熊本県の建築担当者は、住宅局長をはじめ各課長の若い頃は青年委員長など士会活動していた会員で、色々お話が聞けました。「被災半月後も判定要請が多く、被災の大きい地区から作業を進め、他県からの協力も得て住民の要請に応えてきました。ある住民は「やっと来た」と安どの顔つきでしたね」と言っていました。
 耐震改修済の建物で避難所になっていた建物も、二次部材の損傷を含め、避難所として使えない箇所が有ったそうです。
 「耐震改修をしているのに・・・なぜ?」マスコミの論評はこのようなニアンスです。
 でも・・・!
 「もし、改修前だったら・・・どうなっていたか・・改修していて良かった」と言う新聞論評はなかったようです。
 熊本市内の幼稚園・小・中・高の1267棟を発災後10日頃までに応急危険度判定をしたそうですが、約10%の134棟が「落下物有り」を含め、赤(危険)と判定されました。耐震改修工事がなされていても、地盤の状況・地震波の方向・二次部材の事で「危険」となるのです。今まで、熊本は地震災害の少ない地域と考えられていました。
 災害のない事を願っていますが、香川県の皆様も同様に考えられているのではないかと思います。耐震改修工事は万能ではないのです。
 東・南海地震が話題になっています。
 いつ起こるかわからない災害・・! 行政機能も混乱・マヒしている中で、命令系統・責任の所在を明確にしておかなければなりません。平常時に概略的な決め事をして、判定員が速やかに動けるよう準備をするのも大事だろうと思います。
 又、熊本大地震の直前になりますが、H28・3月に内閣府より「災害に係る住家被害認定業務実施体制の手引き」が作成され市・町村が交付する「罹災証明書」の交付に係る被害認定業務に関して、建築士への依頼・建築士会と公共団体との協定に関して記載されています。
 近年の災害を鑑み、香川県建築士会では一部の市町で被害状況調査の協力関する協議を始めたばかりですが、事前の取組など検討しておいて、予想される事に対応しなければと思いを深くしています。今後の皆さんのご支援とご協力をお願いします。


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最近の建設業界の動きについて

合田 耕三
合田 耕三
(株)合田工務店

 香川県建築士事務所協会の創立50周年という節目の年に原稿を書かせていただきますことを大変光栄に思います。うまく表現できないかもわかりませんが、最近の建設業界の動きについて感じていることを書かせていただきます。内容につきましてはいろいろご意見もあるかと思いますが個人の感想ということでお許しいただきたいと思います。
 2020年そして令和2年、現在の建設業界は高齢化と共に深刻な人手不足が発注業務をはじめとし、設計、施工管理、技能労働者(職人)、維持管理と建設業界のすべての分野に広がり、計画通りの事業を進めることに支障をきたす状況に陥っています。また、建築コストも人手不足による労務費のアップにより大きく上昇しています。建築技術者に限って言えば、知識と技術を持った建築士の不足が問題です。かたやそのおかげで発注が遅れ工事の平準化が進んでいるということが起こっています。しかし人手不足はICT(Information and Communication Technology)の活用で社会全体の効率化を進めており、AIやIoTといったデジタル化の進展により生産性を高める動きが始まっています。設計業務においてもBIMの導入が始まり、組織を持った大手設計やゼネコンが、あらゆるデータを集め独自のBIMシステムの構築に全力をあげています。そしてハウスメーカーは中堅ゼネコンやデベロッパーをM&Aして組織力を強めています。ICTの発達は業務を効率化することができますが、大きな労力と投資ができる組織とそうでないところの格差を進めます。今IT業界ではGAFAといった、アメリカの企業が世界の経済をリードしていますが同じことが建設業界でも起こると思います。優れたBIMというプラットホームを持った一部の組織が業界全体を征圧することが起こり、発注もその組織に頼らざるを得ない(AIがBIMを使って建設の全ての工程を管理する)時が来るのではと思います。設備を含めた設計施工一括発注方式で維持管理コストまでを評価対象とする様な新たな競争発注方式が当たり前になる時がきそうな感じがします。
 国土交通省ではBIMを活用した建築生産プロセス等の将来像について審議が進められています。その中の最終目標はAIによる設計の自動化、AIによる設計の審査、建築資材の自動発注、生産そして省力化ロボットの導入、センサーを駆使した安全管理などからその先は無人施行までを視野に議論されています。コンピューターの中で何度も建物を設計し施工し、最適な答えを出すまでシュミレーションすることが可能となってきています。建築生産は単一種、現地生産が基本であった故に工場生産(工業化)は難しいと考えられていましたがそれも覆ることになりそうです。技術革新と人手不足、労働環境の改善が新しい建築生産のプロセスをつくり始めています。自動車を生産するのと同じ様に、できる限りの部品を共通化し、工場で大量生産することによりコストを削減し、現場は組み立てと最後の仕上げだけをすることにして人手がかかる作業を減らし、短期間で完成を目指すシステムが作られてゆく様に思います。それは建築コストの面からも要求が強まります。現在の状況のように建築コストが上がってゆけば採算に合わず、そのうち新築は難しくなります。一部の住居や作業空間が車にとって変わられることがあるかも分かりません、建築の分野だけで考えていると全く違う分野から思いもよらない答えが出されることになるやも知れません。住居がそしてオフィスが土地に固定されている必然はないのですから。物流の分野においても、店舗で品物を並べてお客さんに来てもらって販売する商売の仕方が、スマートホンでカタログを見て注文すると品物が自宅に届く通信販売のビジネスが増えています。店舗は不要で、品物を配達する仕組みがあれば商売が成り立つわけです。10年前のリーマンショックの時とは業態が大きく変化しています。
 さてこれからの10年で建築という産業はどの程度進化してゆくのでしょうか?建築士事務所は大手の組織設計の事務所と中小の事務所の格差がますます広がってゆくことになると思います。中小の事務所はそれぞれの個性とスキルを大切にしながらも共同と協調ができることが不可欠です。緩やかな提携関係を作り、ひとつのプロジェクトにそれぞれの事務所が得意分野の力を結集して業務を遂行する体制づくりが必要です。また既存建物を守ってゆく技術を大切にすることも大事です、AIには真似できない感性を磨き、建物を大切に維持・保存することが社会的な使命になるのではと思いますし、そこにこそ伝統を大事にする地域の建築士事務所としての存在価値があるのではと考えます。また、時代が変化してゆく時は大きなチャンスがあるものです、小さなアイデアが大きな成功につながることが出てくると想像できます。大きな組織ではリスクテイクできないことが小さなところでは簡単にできることもあるのです。ICTの進化で建築生産という物づくりが機能性と芸術性そしてコストをどの様にマッチングしてゆくか楽しみです。若い建築士の皆さんの活躍が期待されますし、ベテランの人たちはそのための土台を築いてゆかねばなりません。10年先、20年先、建築設計のスタイルはどの様になっているかはわかりませんが、時代は確実に変化しています。いろいろな道がありますが、さて皆さんはどの道を選択して、どう歩んでゆきますか?


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賛助会の思い出

福本 富雄
福本 富雄
シンコユニ(株)

 香川県建築士事務所協会創立50周年おめでとうございます。
 平成19年3月にタカネ設計山上所長、富岡設計富岡所長、森勝一設計森所長の皆様に、一部の賛助会員サンキ保子、日本ペイント市村、東工シャッター桑崎、大協建工板坂、朝日建材工業杉上、シンコール松木、各氏と私シンコユニ福本7名が呼ばれて賛助会の他県の活動状況などの説明を受け、香川県建築士事務所協会も今後積極的に賛助会の活動をする事になったので、賛助会活動を立ち上げてもらいたい、と話しがあり、時間がないので即会長を決める様にでした。
 7名で押し問答しましたが、なかなか結論が出ないでいると山上会長から「福本やってくれ」で固辞はしたのですが、最終的に私が引受ける事になりました。引受けたはいいが、活動していなかった賛助会、他に会長などしたことがない、何をどうしたらいいのか分からない。幸いサンキの保子さん日本ペイントの市村さん東工シャッター桑崎さんの皆さんに助けて頂いて進み出しました。
 引受けた当時会員は95 社でした。私はまず活動するには会員を増やそうと思いました。現在は130 数社になっています。
 本会活動に協力する事を目的に賛助会の組織を本会と同じ組織を作りました。何度も何度もサンキの事務所で打ち合わせをして原案が出来た様に思います。
 現在では建築セミナー、工場見学会、ゴルフコンペ、ボウリング大会などを行っています。
 私は賛助会設立の平成19年から27年まで8年間会長を務めさせていただきましたが、今は武田建設の武田社長に引き継いでもらっています。武田さんはスーパーゼネコンの協力会の会長を務めているような方ですので、私より、よい賛助会にしていただけるものと確信しています。
 昨年11月2日よりヨーロッパ最大級の建築関連の展示会「BATMAT2019」に金属屋根協会から16名で参加しました。会場はパリ郊外シャルルドゴール空港の近くで25万m2ほどの規模で、幕張メッセの2倍以上の規模でした。

img-04-002.jpg  展示品は建築関連の資材から建設機器工具に至るまで全般の展示がされていました。特に金属屋根を参考に見ました。欧州は日本に比べて緯度が高く特に高断熱に対する意識が日本とは比較にならないほど浸透している様に見受けられました。
 板金の折り曲げ機に参考になるものが展示されていました。一般的には、上に曲げて、次に下に曲げる場合は板を作業員が反転させますが、その曲機は上刃が降りると下曲げ、下刃が昇ると上曲げ、自社の役物用にはいい機械ですが、6m物で値段が6800万円。輸入して壊れて修理など、いい機械ですが参考までにしました。
 他はサッシの加工機が特に気になりました。切断、穴明、留切、暫く見ていました。横には樹脂のサッシもありました。
 見学後はバスの車窓からは修復作業中のノートルダム大聖堂など見る事が出来ました。
 翌日オルセー美術館に行きました。オルセー美術館はパリ万博の際に作られた駅舎で、その後の交通の変化により使われなくなった駅舎を1986年に改築して、美術館にしたそうです。ゴッホ、モネ、ルノワール・ミレーなど絵画が多く収蔵されているらしく入場者が大変多くいました。

img-04-003.jpg  その後スペイン北部(バスク地方)にパリモンパルナス駅からTGV(新幹線)に乗り、バイヨンヌ駅からバスに乗り、安倍総理も出席してフランスサミットが開かれたビアリッツを見学しました。そこは海岸で立っていられない位の雨風でした。
 その先エスプレットに向かいました。スペイン瓦の屋根に赤色や白色の壁、軒先に昔ながらの唐辛子を干してある風景を残している閑静な町でした。
 翌日牛追い祭りで有名なパンブローナに行きました。町の道路は石畳み、そこを多くの牛が走る想像するだけでも勇壮、危険だろうなと思いました。
 大きな教会を見学してサンセバスチャンに向かいました。サンセバスチャンはビスケー湾に面した美しい海岸の町です。季節外れのためか静かでした。
 最終日はビルバオに入りバスク博物館とグッゲンハイム美術館を訪問しました。
 バスク博物館では地方の民家の模型が展示されていて、バスの車窓から見える今の住宅とあまり変わりない様に感じました。

img-04-004.jpg  グッゲンハイム美術館はアメリカ人の建築家の設計との事。屋根・壁共にチタン板0.38mmの一文字葺きで金属屋根協会の今回の見学目標でした。

img-04-005.jpg  屋根・壁とも曲線で一番に「これ雨漏りするのでは」と思いました。工事費が日本だと5億ぐらいでしょうか、材料がチタン独特の全面歪みが目立ちますが、歪みもデザインの内らしく表現している設計事例で今でも建築雑誌等で多く紹介されています。
 見学最後はビルバオ市内に流れるネルビオン川の河口に掛かる世界遺産に登録されているビスカヤ橋を渡りました。吊橋に普通車程度の6台と人が乗るゴンドラです。
 開閉式だと船が多く通るので、船の間隔を利用して速やかに移動が出来るゴンドラにしたそうです。橋の完成は1893年だそうです。4~5㎞上流でないと橋が無く、今でも地元の人たちには重要な交通手段となって使用されている事が驚きでした。
 最後になりましたが、香川県建築士事務所協会並びに香川県建築士事務所協会賛助会の益々の御発展を御祈念申し上げます。


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設計人生46年目を想う... アトリエの在り方...これからの整え方 ゆっくりと...歩きながら...

入江 丈水(英樹)
主宰 入江 丈水(英樹)
入江建築設計事務所
空間工房+草sohまちづくり研究室

 先日、まんのう公園で一面の菜の花・・・を束の間楽しむことができた。ノルディックを杖代わりに歩きながら・・・ 菜の花~♪~から始まる唱歌のゆっくりとしたメロディーを想い返していた。・・・あれこれ思いながら歩くことがよくある。
 昨年、F. ライトの「ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)」の再〃訪・・・、村野藤吾の懐かしい作品等...、六甲を訪れる機会があり・・・
 恒例の(設計人生を想いながらの...)紅葉カメラ散策の 北陸・永平寺~、奥丹波~等(寺社巡り、瀬戸内国際芸術祭を絡ませながら...)を巡りながら...
 併せて先日、県立ミュージアムでの 「日本建築の自画像・探究者たちのもの語り」の展示空間は遠い時を遡って...楽しめました。
 思えばこれ迄の「建築家山本忠司展」、「祭礼百態 香川・瀬戸内の風流」、「イサムノグチ展-彫刻から身体・庭へ-」、「讃岐びと・・・時代を動かす・地方豪族が見た古代世界」、「丹下健三 伝統と創造-瀬戸内から世界へ」、塩飽海域の太鼓台関連冊子・資料...等、地元関連の展示が続き興味深く拝見したことを次々と想い起こしていました。
 そして今年の初詣は・・・狛ねずみで話題の大豊神社、脇の「哲学の道」を散策しての伏見稲荷大社参拝でした。さすがに人の多さには圧倒されました。
 東京西麻布でのワークから、香川県立高松工芸高校建築科・教職の世界に一度は建築人生を考え・・・、3年後ある契機から建築設計の実務に入り、もう46年目を迎えている・・・。・・・自然と心構えとしての言葉を探していたようだ。
 パンデミック オーバーシュート(爆発的感染拡大) ロックダウン(都市封鎖) スーパースプレッダー クラスター 自覚無き感染 医療崩壊・・・物騒な言葉が飛び交っている。
 建築専門誌でも「建築界を直撃 新型コロナショック(日経アーキテクチュア)」として「特別リポート」が組まれている。 工事資材の調達難、人材不足、工事の遅延と不安要素が多すぎる。
 一昨年と思うが、Tv 番組で少なからず衝撃を受けた 「NHK スペシャル 巨大危機 MEGA CRISIS ・・・ウイルス「大感染時代」・加速・拡散するリスク・・・忍び寄るパンデミック(感染爆発)」に目が離せなかったことを思い返している。
 思い返せば、以前のフランスでのテロショック(ルーブル美術館等も閉鎖・・・)が研修旅行の渡航直前でもあり、仕事のパートナーでもある妻とはキャンセル、長女はあまり気にせず渡航したという経緯がありました。 そのせいか、「Le Louvre(ルーブルとパリの美術)」全8巻・・・重すぎることもあり虚しく本棚に収まっていたのを時々引っ張り出していたのも・・・懐かしい。
 Tv番組「高松 歴史礼讃 謎の古代遺跡・石清尾山古墳群」があり、国指定史跡・石清尾山古墳群の積石塚から映し出されていた。さらに、番組「ジオ中四国・・・奇跡の大地」にも引き込まれ 中央構造線の成り立ちから始まる壮大な・・・瀬戸内海の物語り・・・に感動したのもつい先日のことである。
 石清尾山も瀬戸内海に面していたからこそ200基もの古墳群(高松市教育委員会による報告会も思い出す...)を擁する勢力を・・・ そして、丸亀城の北面も以前、海波に洗われていた為、古道(お成り街道)は南廻りになっていたと聞いたことを思い返していた。
 丸亀市市民講座では例年・・・香川の古代寺院、讃岐の古代、国府、遺跡、古墳等・・・出土瓦等をベースに楽しんでいる。開法寺式からの善通寺系列と、讃岐国分寺系列への瓦文様から読み解く変遷の流れも興味深い。
 私の宗教建築への関心は法隆寺からスタートしたと思う。写真集「古寺巡礼」第一巻からスタートする・・・「大和編 法隆寺・斑鳩の里」(土門拳全集 全13巻)を時々気分転換に捲っている。又、日本古寺美術全集 第1巻 法隆寺と飛鳥の古寺、第2巻 法隆寺と斑鳩の古寺(集英社)も傍に並び、併せて見ている" レオナルドダヴィンチ"関連書も数冊集まって来ている。
 以前、源氏香に魅せられたことにより「家紋と家系辞典」も座右の書となっています。籠目紋(六芒星、ダビデの星、伊勢神宮由来も・・・)六角 万字 輪鼓(りゅうご)紋・臼型(旧丸亀市市章にも採用) 目結紋(京極家) 三階菱紋(さんがいびし) 巴紋(右三巴紋、左三巴紋・・・) 清明桔梗(五芒星・セーマン)等・・・深い意味もさることながら見事な造形を楽しんでいます。
 以前、突然の避難勧告で瀬戸大橋が早朝通行止めとなり、中止せざるを得なかった・・・宗像海人を彷彿とさせる宗像大社(裏伊勢・玄界灘)に、再び気が向いています。 暗い話題もあり、祈りの空間への思いも強くなっているようです。
 平穏な日常が突如危機へと変貌する・・・それが私たちの生きる時代・・・今年はCOVID-19(新型コロナ)禍のため巣ごもり状態が多くなりそうなので・・・恒例の桜散策も 写真・画像(見事に決まりすぎている写真の多い事か!!・・・)でも眺めながら・・・撮影者の感性も楽しみながら・・・の 家花見になりそうです・・・。
 そして、今年度から 地元春日神社氏子総代を仰せつかる年になり、ロータリークラブ歴も35年を迎え、設計人生の時間軸を改めて俯瞰しながら ゆっくりと納得のいく設計人生を手探りしつつ・・・延期された2020五輪に思いを馳せながら、今年は明るいニュースが聞けることを楽しみにしています。

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空間(年輪)の継承

植村 義隆
植村 義隆
(有)植村建築設計室

 総務省の「平成30年住宅・土地統計調査」で空き家率が過去最高の13.6%に達し、全国的に空き家問題への対応が求められている。空き家をそのままにして置くと、倒壊の危険性、衛生面の問題、防犯上の問題等、各市町村に置いてはその対策に苦労しています、空き家になる理由は家庭内における様々な要因があるとは思いますが、住居を継承できるように我々(建築家)も努力していかなければならないと思います。
 私は、昭和22年(1947年)生まれで、終戦後で、食料事情も悪く、小学校の給食においては脱脂粉乳でコッペパン1個程度の粗末な昼食で、校舎は昇降口のない吹き曝しの廊下から直接教室に出入りできる木造平屋建ての校舎でした。でも生徒数は、戦後のベビーブーム(団塊の世代)で1クラス50人の生徒数で1学級3クラスもあり、市町村においては、大川郡鴨庄村でした。

(昭和の時代)
 住環境においては、実家が半農、半業で祖父の代から大工をしており傍ら農業もしていました。
 稲作、柿、桃等の果樹園もあり農協市場に出荷していましたが、農業で生活が成り立つ規模ではありませんでした。
 初代の建築は、私の祖父が昭和5年に上棟した、築90年になる木造(中二階建)で横の納屋は当時木材不足で古い建物を解体した時に貰いうけた古材で建てたそうです。
 住まいに置いては、典型的な田の字形式平面で、当時農耕用に牛を飼っていたので、農機具と大工道具置き場の倉庫(納屋)が母屋の横に建っており、前庭に鶏小屋(10羽程度)花壇、坪庭、生垣が配置されていました。納屋には木屋が併設しておりました、当時はまだプロパンガスが普及されておらず、木屋は燃料になる木材、松葉を保管する場所でした。
 木材は家が大工もしておりましたので現場の残材で十分まかなわれていました。風呂と便所は母屋と離れており、朝起きるとトイレと、洗顔(歯磨き)は井戸横の流しで非常に冬場は寒い思いがしました。母屋には、土間(叩き)式の玄関があり、1年間の食料であるお米が入れられ大きな保存缶が2缶、自転車が1台収容されており、炊事場(台所)は土間形式でした。土造(煉瓦)で漆喰塗りのおくどうさん(釜土)三口あり、横にはテラゾウ式の流しと炊事用の水瓶が配置されておりました。当時は、まだ水道がなく井戸水をつるべで汲み上げていました。又、井戸横には野菜の水洗いや魚の下処理用の流し台がありました。食堂は松板張りで(床下は芋穴になっている)冬は非常に寒い思いが、そこには600×800程度の小さなちゃぶ台を家族6人が囲んで裸電球1個で食事した思い出があります。玄関の横には、6帖の南座があり奥に8畳の仏間と床の間付の客間(6帖)があり、祖父と姉と妹の寝室と勉強部屋になっており、夏場は空調のない時代で縁側のガラス戸を解放し、一つのカヤで寝た記憶があります。

img-06-002.jpg (平成の時代)
 その後、私と姉妹は進学、就職、結婚、独立と核家族化が進み家族構成が祖父と両親の3人構成となり、しばらくして祖父の死後、両親だけの生活体系になり、住宅の空間構成も少しずつ変化が見えはじめ田の字型から、土間形式の台所から床を上げフローリング張り、小屋組み現しの天井が杉板張り、キッチンは釜土からステンレス製流しとガス台に変わり、浴槽は五右衛門風呂からホウロウ浴槽の直焚き、トイレは汲み取りから浄化槽、玄関は土間から取次場兼応接間へと様子をかえアメーバのように形体を少しずつ変えていき、しばらく時がたち、長女が小学校入学時に私たち家族4人が同居するようになりそれぞれの独立した空間が必要となり、子供部屋の改造、寝室の増設とリフォームをして機能型の空間構成となり、しばらくして母の死後、日本文化が楽しめる、美的空間求め、お茶室併用、客間の増築、独立した床の間付の玄関(取次の間)、台所のキチンをシステムキッチンにし、食器戸棚を照明入りの収納型、浴槽をユニットバスに改造、そして時がたち子供たちの進学、結婚、独立と時代が流れ父親と私たち夫婦と3人家族となりました。

img-06-003.jpg (令和の時代)
 そしてしばらく時がたち父親の死後、家族構成は2人だけの生活になり、私たちも古希を超え、それぞれが趣味を生かした生活体系となり、独立した寝室に、浴室、トイレ等、介護サービスが受けやすく配置し、長年にわたって使用して来た家具等の収納スペースを大きめに、フリー空間を広めに又、趣味の多目的室、多目的ウッドデキを配置するために、当初の農業用の納屋(牛小屋)を改築しました。このように住空間の変化はその時代、その時の生活の年輪であり、住まい手の心を癒し、家族の絆の場所として時代を超えて、将来に渡り継承されていかなければならない財産であると思います。

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近頃思うこと「建築の寿命とは?」

篠原 晴伸
篠原 晴伸
(株)タカネ設計

 動物の寿命は脳の成長のピーク年齢の5倍だそうです。そうなると15歳~20歳程度で亡くなる犬や猫は3才~4歳が脳のピークと言う事でしょうか。人間の脳の成長は大体25歳で止まる様ですから本来125歳程度が人間の寿命と言う事になるそうです。日本では100歳を超える人口はこのところ急激に多くなって7万人程ですが、それでも農薬とか添加物入りの食べ物や過剰なストレス、病気や事故災害等、色々な条件で中々長生きは難しいようです。
 人間の寿命を100年と仮定してみて、色々な物の寿命を考えた時、物でも生き物でもまた時間的な経過でも、それぞれのスパンは長いのか短いのかという疑問が出てきます。例えば人生100年と考えると今からたった150年前が江戸時代だなんていうのも私の中では不思議ですし、太平洋戦争終結後約75年である今、戦争終結以前のたった75年程度で日本は江戸時代から近代化へ激的な変化を成し遂げた事になります。
 話は建築になりますが、建築もまた寿命は長いのか短いのかと考えてしまいます。それは建物の減価償却がどうか、と言う意味ではありません。
 私が若い時は、設計した建物は相当長い間存在するだろうと思っていましたが、卒業後1年余りで補助として関わった大的場の公共施設も、今は解体されて無くなってしまいました。竣工後約30年程だったと思います。
 其々の過程で、その時代には利用者が有ると想定され要望された施設も、時の流れの中で使われなくなる建物もあります。古い公営住宅やマンションまた店舗も含まれるでしょう。そして人口減少も建築への変化に対する大きな要素です。例えば統廃合で使われなくなった校舎も解体を待つだけと言う場合もあるでしょう。
 近年は耐震に対する対応の重要性から、昭和56年以前の建物で耐震補強が困難だったり工事費がかさむ場合、解体しか方法が無い場合もあります。種々の条件で建物が活かされなくなる状況を見るのは仕方ないにしても、自分が設計に関わった建物の場合は特にどこか切ないものです。
 昨年沖縄の首里城が焼けました。今回焼けた首里城は1992年に出来た正殿で、築後まだ27年です。当然建替えや修理が行われるでしょうし、その存在価値が繋ぎ残っていくと考えると寿命は長いとも言えますが、築後27年で無くなるのではやはりとても短かいですね。

img-07-002.jpg  一方で完成後に、もう一度見に行きたいと思っている命の長い建築が有ります。
 1882年から建設され、2026年完成予定として未だ建設中のサグラダファミリアです。
 建築家ガウディが亡くなっても、その思いが他者によって引き継がれ、建設され続け現在も息吹を吹き込まれている建物です。建設の経過が長いだけに表と裏のファサードは新しさと古さが違い過ぎる感はありますが、何れにしろ今まだ生まれようとし、ガウディ没後100年に当たる2026年の竣工後も間違いなく維持され続けて相当に命の長い建物になるでしょう。

img-07-003.jpg  私は若いころ村野藤吾さんの作品に感動し良く雑誌を見、デティールを模した事も有りました。特に村野さんが60歳半ばを過ぎての作品は瑞々しく潤いを感じました。村野さん等の建築家だけでなく、著名な芸術家等も含め、作品を造る人は恐らく常に何かを求める強い探求心があるからか、年齢に関係なくというより、年齢を重ねる程に逆に若々しく、自由でフレッシュな感性に近づいている様に思えます。若かった私はその方達を手本にしようと考えたものですし、村野さんと同じ93歳までと言うか生涯現役で建物に取り組みたいと思ったものです。
 その村野さんの作品も、最近ネットで検索した作品リストでは約半分が「現存せず」となっていました。古い建築で構造強度が無い等の仕方ない物もあるでしょうが、その中にはまだまだ新しい建物もあります。著名な建築家の建物でさえ、その寿命がとても短い場合がある。そう考えると、建物の寿命(存在価値)はいったいどの位が妥当なんだろうと思わざるを得ません。
 都会の高層ビルが30年や50年で建替えられる事は考え難いですが、香川県内を見渡すと30年から50年で建替えられている建物は多いように感じます。そこで建物の寿命に影響する要素を考えて見ました。
  ① 建物の機能や運用が時代に伴わないもの
  ② 建築の構造強度が基準に適さなくなったもの
  ③ 建築物の風化
  ④ 作風やデザインの消失
  ⑤ 維持管理が出来ていないもの
  ⑥ 建築の運用形態が時代にそぐわないもの
  ⑦ 災害により消滅するもの
  ⑧(海外の場合)戦争やテロ等の破壊行為
                    等々

img-07-004.jpg  1964年の前回の東京オリンピックの頃はテレビが一般家庭に普及しモノクロ画面からカラー(天然色)となって行きました。今は車が1~2台ある家庭も増え子供もスマホを持っている時代になりました。前回から今年のオリンピックまでの56年間、人や物の社会的変化に伴い、都市や建物は急速に様相を変えてきています。その間都会だけでなく地方都市の建物も一度は建替えられた物が多いのではないでしょうか。近い将来、増えるであろう人生100年時代や益々の人口減少、5Gやその後の6G関連による社会の様々な変化が建築や都市形態そのものへ影響する事が予測される中で、人との関わりを基本にしつつも建物にはより従来と違う柔軟な変化や対応を求められると思います。そうなるとそれまでに建った建物の寿命にも当然影響を与える事となるでしょう。その現象を経済も含めた社会の発展として前向きに捉えつつも、設計に携わる者としては、やはり建築の寿命はどの位が妥当なのだろうかと考えてしまいます。


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建築職人育成学舎「匠の学舎 アカデミー技心館」紹介

白川 勝
白川 勝
大企建設(株)

 この度は、協会創立50周年誠におめでとうございます。心から、お祝い申し上げます。
 さて、私共は、今から3年半前の平成28年6月に、仲多度郡琴平町に於いて、建築職人育成の為、「匠の学舎 アカデミー技心館」を開校致しました。
 開校の背景は、建設業界の職人さんの高齢化と慢性的な職人不足をひしひしと感じていたと言うことです。

img-08-002.jpg  また、個人的に里親を30年近くやって来た中で、若者たちの育成と言うものの大切さを感じておりました。
 開校の目的は、職人不足の一助として、このような青少年に、建築職人の技術と生きていく中で必要な最低限の読み書き算盤、そして挨拶・返事が出来るように躾をきちんと教えて、「一生 メシが食える」ような建築職人にしてやりたいとの思いです。
 具体的には、中学校を卒業した15才の生徒を募集して入学を募っています。現在は1年生5名、2年生4名、3年生5名、計14名です。令和2年3月には、初めての卒業生を送り出す予定です。

img-08-003.jpg  また、通信高校と連携して、3年間で高校卒業資格も得られる事にしています。
 日々のカリキュラムとしては、各学年とも曜日別に座学、現場研修を行っています。現場研修に関しては、1年生の間は、16の各業種企業の現場や工場に出向き、そこの職人さん達に技術を教えてもらっています。1年生の終わりには、体験現場研修をした業種企業の中から自分の適性や体力も考慮の上、保護者同伴の基、2年3年の専門現場研修先を決定します。2年生以後は基本的には、決めた1つの業種企業に専門現場研修に行きます。そして、卒業後その企業に就職すれば、企業は自分たちの教えた経験ある生徒であるし、生徒も就職時には、ある程度の技術が身についていると言う事になります。

img-08-004.jpg  この様な活動の中で、地域の建築業界に、微力ながらもお役にたてればと考えています。
 今後とも、地域業者のみなさんの協力を得て、活動して行きたいと考えています。
 今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

【組織詳細】
 名称:一般社団法人 匠の学舎
 代表者名;代表理事 白川 勝
     設立:平成28年1月28日
 住所:香川県仲多度郡琴平町45番地
 TEL:0877-89-1676 FAX:0877-89-1677
 E-mail:info@takumi-manabiya.com
 http//takumi-manabiya.com


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