Top>会員投稿>寄稿: 2015年8月
皆さんはインドネシアについてどんなイメージがあるのでしょうか。赤道直下の国で高温多湿、発展途上で人口が多い、観光地が多い等さまざまな印象があると思いますが、それは当たっているけど少し外れているというのが正解だと思います。
インドネシアの人口は約2億3千8百万人(2010年)国土面積190万km2、それに比べ日本の人口は1億2千8百万人(2010年)国土面積37.8万km2となっている。単純な人口密度の比較で言えばインドネシアの人口密度は日本の約1/3となる。行けども行けども家が無く人に会えない道が続く。赤道直下はスマトラ島の中央部のみで、国土は北緯10度~南緯12度に位置する。それでいて日本の夏より暑くなく、日射は強いものの湿度は低く木陰に入ると驚くほど涼しい。発展途上でもあるが、ジャカルタという大都会があり、日本と変わらぬ生活がある。観光地も無論あるが、それ以上に工業生産国としての地位を確保している。天然資源も豊富で農産物の自給率も100%以上である。したがって国家としてのプライドが高く完全に自立している国なのです。
ところで、もしあなたがこの国で仕事をしようとするとき、中途半端な気持ちではできないことに直ぐ気付くことでしょう。行動するためにはまず、信頼できる仲間がいること、政治的に信頼ができる相談者がいること、私は中途半端な気持ちでここにいるのではない、という気持ちが理解されていることが絶対的な条件になります。
私が最初にインドネシアに渡ったのは2年前、単純な憧れからでした。「暖かい国でのんびりと設計の仕事ができたらいいな」的な安易な気持ちがそのスタートでした。今でもそのときの気持ちは残っていますし、それが理想です。でもそんな甘い気持ちは最初の半年間でもののみごとに吹き飛ばされてしまいました。
ビジネスにおいては日本ほど融通が利く国民はいないことが良く分かりました。価値観、商習慣、宗教観等の全てがあまりにも違うのです。それが理解できるまでに相当な経費を費やしました。その後ここまでは誰もが通る道、と自分に言い聞かせ挫折せずにこれたのは、やはり仲間の存在が大きかったのだと思っています。そうなってから最初に思ったことはまず一緒にやってきた現地スタッフが生活できるようにしようということでした。建築とは直接関係無いこともしました。当時、他の人が私を見下ろしがちに「一体何やっとんですか?」と言うことをよく言われました。今から思い出すと恥ずかしいことも当時は一生懸命でしたから、特に何にも感じず只々「責任があるんで」と弁明していたことを思い出します。
現在は自分の夢のルートが出来つつあると言えばいいのでしょうか。まだまだ道半ばではありますが、希望の光も見えてきています。「前進あるのみ」この言葉がぴったりの人生になってしまいました。一番最初に渡ったインドネシア、スマトラ島のジャングルで見上げたなんとも言えぬ美しい星空が、自分の未来を物語っている気がして子供のように胸が高鳴り高揚したことを忘れないよう、仲間とともに頑張って行きたいと思うこの頃です。
北浜アリー(通称)は、食料品等の港湾倉庫群として戦前にJAが建てました。
当時は倉庫前の岸壁に貨物船が横付けをし、小麦粉など食料品等が保管され、各所に配送され賑わっていたようです。
当倉庫は5棟が連なっており、棟毎に区切られています。木造平屋建て、トラス組真壁造、梁間10.80m、軒高9m、奥行き36m、内部は白の漆喰壁、90センチ間隔の柱と筋違が壁に表れ、天井無の大空間は他に類を見ないものです。
屋根はセメントスレート葺き、波型鉄板スレートの外壁は、幾星霜の潮風と風雨に晒され赤く錆びついています。海上の波のざわめき、行き交う船の臓腑に響くエンジン音、遠くに聞こえる汽笛。
そして倉庫の赤錆の壁、それぞれが重なり合い、見事なハーモーニーとなって哀愁を誘います。
20年前、此の貴重な文化遺産を保存すべくJAの了解の元、井上商環境設計(株)・代表 井上秀美氏が開発を行い、県内外の優秀なテナントを募集、現在は、飲食店(イタリアン)、美容院、ショットバー、カフェ、雑貨店等が営業しています、井上氏自らも、JAの元寄宿舎をリフォームし、雑貨+カフェ(ナージャ)を営業し常に話題を提供しています。
北浜アリーの醸し出す、独特のノスタルジックな雰囲気が反響を呼び、開発当初から、雑誌の表紙、テレビの取材等に再三取り上げられ、不動の観光スポットとして県内外の観光客が来訪、食事もできる、デートスポットとして終日賑わっています
恒例の≪餅つき≫は中国蘇州の煉瓦を敷き詰めた北浜アリーの中央広場(通称煉瓦広場)で毎年、年末に行います。参加者がついたお餅を、ボランティアの方々がその場で、ぜんざい・雑煮を拵え振舞い、小餅のお土産もついています。
毎年参加者は増えているようです(昨年600人~700人)一般参加の他に著名な国会議員の先生、歴代の県知事、市長、又、サッカーのカマタマーレの選手たちが、子供達と一緒に餅つきを楽しみ、賑わいに華を添えています。会場には餅つきの他に、各島々より新鮮な野菜、イチゴ等の直売もあります。
更に、たこ焼き、うどん等の屋台もあり時間を忘れそうです、最近は太鼓ショーがあり、幼い子供が大人に交じって秀抜の演技をしており、思わず見入ってしまいます。
来客の駐車場の整理、会場の設営、ゴミの回収等は、全てボランティアの方々の協力により行われ、人と人との心の温かさが胸に沁みわたります(ボランティア 北浜男組 代表後藤氏)餅つきは、古来より日本文化の一つとして継承されてきましたが、店頭で出来合いの餅が並ぶようになり、それにつれて各家庭で行わなくなったようです、それ以前は各家庭で、又、親戚縁者が集まり年末の恒例行事として行われておりました。
新年を迎える為の儀式でもあった様です。
北浜アリーでは、失われつつある大切な日本文化の、餅つき、を広く継承しようとしています、親から子へ、その子から子へ伝わっていくことを願って・・・
チケット 1枚− 500 円(ぜんざい、雑煮、小餅)
寄稿: 2015年8月アーカイブ
南緯0度の夜空
大北 和則
(有)住空間設計
皆さんはインドネシアについてどんなイメージがあるのでしょうか。赤道直下の国で高温多湿、発展途上で人口が多い、観光地が多い等さまざまな印象があると思いますが、それは当たっているけど少し外れているというのが正解だと思います。
インドネシアの人口は約2億3千8百万人(2010年)国土面積190万km2、それに比べ日本の人口は1億2千8百万人(2010年)国土面積37.8万km2となっている。単純な人口密度の比較で言えばインドネシアの人口密度は日本の約1/3となる。行けども行けども家が無く人に会えない道が続く。赤道直下はスマトラ島の中央部のみで、国土は北緯10度~南緯12度に位置する。それでいて日本の夏より暑くなく、日射は強いものの湿度は低く木陰に入ると驚くほど涼しい。発展途上でもあるが、ジャカルタという大都会があり、日本と変わらぬ生活がある。観光地も無論あるが、それ以上に工業生産国としての地位を確保している。天然資源も豊富で農産物の自給率も100%以上である。したがって国家としてのプライドが高く完全に自立している国なのです。
ところで、もしあなたがこの国で仕事をしようとするとき、中途半端な気持ちではできないことに直ぐ気付くことでしょう。行動するためにはまず、信頼できる仲間がいること、政治的に信頼ができる相談者がいること、私は中途半端な気持ちでここにいるのではない、という気持ちが理解されていることが絶対的な条件になります。
私が最初にインドネシアに渡ったのは2年前、単純な憧れからでした。「暖かい国でのんびりと設計の仕事ができたらいいな」的な安易な気持ちがそのスタートでした。今でもそのときの気持ちは残っていますし、それが理想です。でもそんな甘い気持ちは最初の半年間でもののみごとに吹き飛ばされてしまいました。
ビジネスにおいては日本ほど融通が利く国民はいないことが良く分かりました。価値観、商習慣、宗教観等の全てがあまりにも違うのです。それが理解できるまでに相当な経費を費やしました。その後ここまでは誰もが通る道、と自分に言い聞かせ挫折せずにこれたのは、やはり仲間の存在が大きかったのだと思っています。そうなってから最初に思ったことはまず一緒にやってきた現地スタッフが生活できるようにしようということでした。建築とは直接関係無いこともしました。当時、他の人が私を見下ろしがちに「一体何やっとんですか?」と言うことをよく言われました。今から思い出すと恥ずかしいことも当時は一生懸命でしたから、特に何にも感じず只々「責任があるんで」と弁明していたことを思い出します。
現在は自分の夢のルートが出来つつあると言えばいいのでしょうか。まだまだ道半ばではありますが、希望の光も見えてきています。「前進あるのみ」この言葉がぴったりの人生になってしまいました。一番最初に渡ったインドネシア、スマトラ島のジャングルで見上げたなんとも言えぬ美しい星空が、自分の未来を物語っている気がして子供のように胸が高鳴り高揚したことを忘れないよう、仲間とともに頑張って行きたいと思うこの頃です。
年末恒例 北浜アリーの餅つき(^^)!
井上 輝幸
T・Rアーキテクチュアル・コンサルティング(株)
北浜アリー(通称)は、食料品等の港湾倉庫群として戦前にJAが建てました。
当時は倉庫前の岸壁に貨物船が横付けをし、小麦粉など食料品等が保管され、各所に配送され賑わっていたようです。
当倉庫は5棟が連なっており、棟毎に区切られています。木造平屋建て、トラス組真壁造、梁間10.80m、軒高9m、奥行き36m、内部は白の漆喰壁、90センチ間隔の柱と筋違が壁に表れ、天井無の大空間は他に類を見ないものです。
屋根はセメントスレート葺き、波型鉄板スレートの外壁は、幾星霜の潮風と風雨に晒され赤く錆びついています。海上の波のざわめき、行き交う船の臓腑に響くエンジン音、遠くに聞こえる汽笛。
そして倉庫の赤錆の壁、それぞれが重なり合い、見事なハーモーニーとなって哀愁を誘います。
20年前、此の貴重な文化遺産を保存すべくJAの了解の元、井上商環境設計(株)・代表 井上秀美氏が開発を行い、県内外の優秀なテナントを募集、現在は、飲食店(イタリアン)、美容院、ショットバー、カフェ、雑貨店等が営業しています、井上氏自らも、JAの元寄宿舎をリフォームし、雑貨+カフェ(ナージャ)を営業し常に話題を提供しています。
北浜アリーの醸し出す、独特のノスタルジックな雰囲気が反響を呼び、開発当初から、雑誌の表紙、テレビの取材等に再三取り上げられ、不動の観光スポットとして県内外の観光客が来訪、食事もできる、デートスポットとして終日賑わっています
恒例の≪餅つき≫は中国蘇州の煉瓦を敷き詰めた北浜アリーの中央広場(通称煉瓦広場)で毎年、年末に行います。参加者がついたお餅を、ボランティアの方々がその場で、ぜんざい・雑煮を拵え振舞い、小餅のお土産もついています。
毎年参加者は増えているようです(昨年600人~700人)一般参加の他に著名な国会議員の先生、歴代の県知事、市長、又、サッカーのカマタマーレの選手たちが、子供達と一緒に餅つきを楽しみ、賑わいに華を添えています。会場には餅つきの他に、各島々より新鮮な野菜、イチゴ等の直売もあります。
更に、たこ焼き、うどん等の屋台もあり時間を忘れそうです、最近は太鼓ショーがあり、幼い子供が大人に交じって秀抜の演技をしており、思わず見入ってしまいます。
来客の駐車場の整理、会場の設営、ゴミの回収等は、全てボランティアの方々の協力により行われ、人と人との心の温かさが胸に沁みわたります(ボランティア 北浜男組 代表後藤氏)餅つきは、古来より日本文化の一つとして継承されてきましたが、店頭で出来合いの餅が並ぶようになり、それにつれて各家庭で行わなくなったようです、それ以前は各家庭で、又、親戚縁者が集まり年末の恒例行事として行われておりました。
新年を迎える為の儀式でもあった様です。
北浜アリーでは、失われつつある大切な日本文化の、餅つき、を広く継承しようとしています、親から子へ、その子から子へ伝わっていくことを願って・・・
チケット 1枚− 500 円(ぜんざい、雑煮、小餅)