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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 尾崎真悟

建築文化から創造都市へ
尾崎真悟
(一社)香川県建築士事務所協会 賛助会
尾崎真悟
((株)香川県建築住宅センター)

 貴重な誌面をいただき、最近、思っていることを書いてみましたが、与太話になったことをお許しください。

 いろいろな場面で、建築文化とか建築の文化性といった表現を目にすることが多い。さらに、この表現を使うのは建築分野の人であることが多い。そして、建築文化って何でしょう?、と尋ねてもなかなか的確な説得力のある答えが返ってこないような気がしている。時々、文化財に詳しい方々から伝統的な手法、景観、歴史性の価値を懇々と教示いただくこともあるが、現代建築を設計、施工する実務者の立場からは少し違う気がする。
 文化とは何なのか、と思い調べてみた。国の文化芸術振興基本方針に、
 文化は、最も広くとらえると、人間が自然とのかかわりや風土の中で生まれ、育ち、身に付けていく立ち居振る舞いや、衣食住をはじめとする暮らし、生活様式、価値観など、およそ人間と人間の生活にかかわることのすべてのことを意味する。(途中、略)この文化の中核を成すのは、芸術、メディア芸術、伝統芸能、芸能、生活文化、国民娯楽、出版物、文化財などの文化芸術であると記されている。
 文化という大きなくくりがあり、その中のこれこれが主要な構成分野である、というような内容だと思うが、建築文化という言葉が出てこないし、建築をこれら文化芸術の活動の場、施設として捉えており、文化芸術の一部とは考えていないようである。敢て文化芸術の中に建築の居場所を探すとそれは文化財の建造物ということになり、先ほどの文化財の方の考え方は国の方針に沿っており全く正しいのである。
 しかし、現代建築は芸術性の高い文化である、と思いたい私にとっては戸惑ってしまう。
 いろいろ考えるに、日本では、人の思考、能力、専門分野や社会での活動を、理科系と文科系、科学・技術と文化・歴史など、いわゆるハードとソフトに分ける傾向がある。現代建築は、理科系で科学・技術のハード分野であり、ソフト分野の文化芸術ではないと見られているような気がする。
 一方、建築に関わる者は、おそらくこういう分野の境界を感じていないのではないか。
 これが、「建築の文化性」の説明もどちらの側の人間かによって、互いによくわからない、それは違うだろう的な状況になっている原因ではないだろうか。
 建築は、最初の定義に照らし、人類発祥から自然と関わり、生活の一部として存在してきたものだから、大きなくくりの文化であることは間違いないだろう。次に、現代建築は、意欲的な創造活動により生み出されるものであることから芸術と同じ位置付けであり、文化の中核をなす文化芸術でもある、と思う。

img-01-002.jpg 以前に、小豆島でアーティストと関わる仕事をしたことがある。彼らは、芸術家として自負があるが、建築に対しては敬意を表してくれる。その中の一人、米国人のJ氏が、「建築とアートは非常に似ている。違いは、アートは根幹が哲学であり、建築は根幹が数学である。」と語った。彼の作品は、建築の内外装のような作風である。建築の人も一度は彼の作品のようなことをやった経験があるのではないか。アートの世界もキャンバスに絵を描くことから、いろいろな空間の一部として表現する立体作品が主流になっている。建築への接近であるが、防災上や安全上のことはやはり建築の専門性が必要であり、コラボをしたいとも。彼の話から、建築家は微分積分ができる芸術家である、ということになるが、これは、建築の持っている芸術性を証明しているようにも思える。

 「で、どうしたいの?」というところで、次の段階として、「創造都市」である。

img-01-003.jpg 創造都市とは都市を創造するという意味ではなく、創造的な都市(クリエイティブ・シティ)という意味らしい。海外からの概念のようだが、日本では、建築分野での都市計画手法ではなく、芸術分野のアウトリーチのように捉えられている。
 また、「地域の活性化」が各地で叫ばれている。これもいろいろな形態があるが、アーティストを呼んできて一緒に創作活動をするというもの、著名な建築家の作品や伝統的建造物、伝統芸能などを核にして活性化を図るものなど創造都市を意識しているようにも思える。

img-01-004.jpg 都市の個性、形態として創造性を言うなら、本来は建築の手法であり、建築の得意分野のはずだが、なかなか現代建築の影響力が話題にならない。先ほどからのアートかサイエンスかということ以外に、建築は、莫大な工事費がかかり、建築家は実務上、コンサルタントか請負者の立場にあり、建築主(事業主)は別にいることが大きいと思える。
 そんな中で、個人的に注目しているのが、建築の意欲的な創作活動によるクリエイティブな匂いのする都市空間である。またまた抽象的で、分かりにくい表現を使ってしまうが、何らかのプロジェクトとして進められたと思われる現代建築の創造性を活用した、いわば建築色の強い創造都市がある。

img-01-005.jpg 横浜、神戸、尾道の街並みに実際に接してみた。都市再生というのかもしれないが、デザインされた都市の形がある。建築とアートのコラボもある。クリエイティブな匂いがする、何か落着く、居心地の良い空間を感じる。そこは、自然に人が、それも若者が集り、そしてにぎわっている。

img-01-006.jpg 横浜、神戸は都会だから一工夫するだけでよいのかもしれないが、尾道には驚いた。坂の多い、斜面からすぐ海といった街で、倉庫街のリフォームやウッドデッキの遊歩道だけではこれだけのにぎわいは作れないはずである。
 テーマは歴史文化の活用だそうだが、建築の創造性(文化芸術性)の匂いがした。もっと調べてみたい都市である。
 以上、ろくに調べもせずに感覚だけの事例紹介になり、それも港が好きなだけにウォーターフロントばかりになり、今後の課題が多い結果になった。

 一工夫ある設計、周辺環境や地域の特性へ配慮した設計、これらの積重ねが創造性あふれる都市につながるように思います。文化芸術としての建築、創造都市、こういった役割を担うのも建築士事務所協会の皆様ではないでしょうか、是非、頑張ってください。


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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 福本富雄

賛助会発足のころ
福本富雄
(一社)香川県建築士事務所協会 賛助会
顧問 福本富雄
(シンコユニ(株))

 平素は(一社)香川県建築士事務所協会賛助会の活動に御協力を賜り厚く御礼申し上げます。
 平成19年初めタカネ設計山上所長、森勝一建築事務所森所長、富岡建築研究所富岡所長、市原建築設計事務所市原所長の皆様から賛助会会員7社が呼ばれて集まりました。
 事務所協会山上会長より賛助会を「会として活動してもらいたい」と説明がありました。賛助会としては願ってもないことなのでその場に居た全員賛成しました。
 山上会長より「新年度に間に合わすべく賛助会会長を直ぐに決めて下さい」との事でしたが、集まった賛助会員皆が押し合いなかなか決まりませんでした。
 すると山上会長から「福本やってくれ」で出席者全員にも押され、固辞はしましたがお受けしました。
 引き受けはしたものの、何をどうすれば?さあ、困った!
 本会と相談しながら集まった各社にそれぞれの役を引き受けて頂き、取り急ぎ協会誌「idea」の組織表の印刷に間に合わせました。
 当時副会長を引き受けて頂いた東工シャッター桑崎氏、サンキ保子氏、日本ペイント市村氏が中心となり色々な協議を重ねてもらいました。

img-01-002.jpg 私は、会は皆で盛り上げ、賛助会に入会して良かった、と言ってもらえる会にしたいと思いまして、当時95社だった会員を増やす活動を続け、現在約128社にまで御協力を頂いております。賛助会の会員でも会社同士の面識がないようでしたので、全社出席を目的に合同委員会を開催し、本会との交流を図ろうと各委員会にテーマを作って頂き、協会の会長を始め各委員の先生方、専業の方々も出席して、終了後懇親会などで盛会裏でした。現在は秋に企画委員会の懇親ゴルフ大会、総務委員会の年2回ボーリング大会を行っております。賞品などは各社に協賛頂き、会を盛り上げて頂いております。技術委員会では本会で行なっていたセミナーを年3回引き継いで行っております。会員交流委員会では工場見学会を県外と県内を隔年で行なっております。

 昨年、会長を武田建設社長の武田さんに交代して頂きました。武田さんは大手建設会社の協力会の会長等多くの役職を兼ねており、益々賛助会を発展させていただける事と確信しております。
 私事ですが少し時間を作って業界の研修旅行に昨年はベルギー、イタリアに行って来ました。ブリュッセルの建材展では1万m2位の建物が7棟~8棟有り、木材から金属窯業、住設に至るまで資材ごとの展示ブースでとても1日では見学しきれません。職種柄で金属主体に木材窯業系を駆け足で見て回り、イタリアの世界遺産ナポリ地区、ポンペイ遺跡地域を視察しました。約2000年前のヴェスヴィオ山が爆発し一瞬にして火山灰に埋没した建造物の遺跡も見学しました。石畳の道路には歩道があり路肩の石には馬車繋ぎの穴があり、建物の内部の一部に彩色が残っている所もあり2000年も前にこれだけのものが出来る事の文明の高さに感動しました。
 世界一美しいといわれる海岸アマルフィ海岸を通り、白壁に円錐形の石積み屋根を載せた「トゥルッロ」が有名なアルベロベッロも見てきました。
 今年の建材展はドイツ、オーストリアでした。ドイツではベンツの本社・工場見学をしました。ボディのプレスラインでは12,000tのプレスでボディを絞り、何機もある40tの金型交換が8分だそうです。驚異の速さでした。
 ロマンティック街道を通りノイシュヴァンシュタイン城視察、最終日はウィーンで本場のオーケストラの演奏会に行きました。音楽は解りませんが圧倒される迫力です。しかも大半の観客が正装でした。急遽チケットが取れたので、こちらはジャケットのみの軍団で少々場違い気味でした。
 参加の度に外国の建物、文化に触れ日本との違いに驚かされ、日本もしかりですが、先人の知恵工夫の凄さに毎回感動しております。私ももう少し頑張ってみます。
 最後になりましたが(一社)香川県建築士事務所協会の益々の御発展と、会員各社の御繁栄を御祈念申し上げます。

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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 牧野直樹

若かりし頃
牧野直樹
牧野直樹
((株)香川県建築住宅センター 代表取締役)

建築課営繕
 子供のころから物を作るのが好きで、あまり進路に悩むこともなく、工学部の建築学科に進学。卒業時にはすっかり建築好きの青年になっており、設計の仕事に携わりたいと考えていた。しかしながら、世の中はニクソンショックの影響で全般的に不況であり、特に、建設業界はその傾向が強かった。設計事務所の求人は少なく、一方で 当時の著名な建築家の設計した建物(丹下健三氏の県庁舎、県立体育館、大江宏氏の文化会館、丸亀武道館、芦原義信氏の県立図書館等)が数多くある香川県の建築に魅力を感じるとともに瀬戸内海歴史民俗資料館を設計した山本忠司氏に憧れていた。
 そんな折、大学の恩師が「牧野君、就職どうするの」、「設計事務所を希望していますが、香川県も考えています」「私、山本さんと知り合いだから、紹介してあげるよ。一度、県庁に行ってきな」と名刺の裏に紹介状?を書いてくれた。「先生、県庁は試験があるんですけど」「いいから、いいから」山本課長にアポイントを取って、県庁まで出かけたが、忙しい課長は不在で会えずじまい。大切な紹介状?をどうしたか、今となっては記憶にない。こんな経緯はあったものの、試験を受けて県庁に就職することになった。
 建築課に配属となって、憧れの山本氏と初対面、それまで建築の雑誌などで顔写真は拝見していたが、実物は、体が大きい、身長も胸板も、顔もでかくて彫りが深い、手の指も太い、とにかく圧倒された。後に、三段跳びでヘルシンキのオリンピックに出場したと聞いて、妙に納得した。
 建築課の一般営繕係で仕事をすることになったが、そこでは主に学校や住宅以外の県有施設の設計、工事監理を行っていた。一年生の職員にも小さいながらも、新築や増築の仕事を任されており、税金を使ってする建築を私のような若造に自由にやらせてもらえていいのかという不安もあったが、任せてもらった喜びが大きかった。
 当時の建築課はかなりの大所帯で、若い職員が多かったこともあってか、活気にあふれていた。また、多くの職員が他の人が担当する建物の計画に興味を持っていた気がする。図面を描いていると製図版の周りに人が集まってきて、「なんでこうするん、それならこの方がええのとちがう」と色々な質問やアドバイスをもらった。計画の整理や悩んでいる時の解決に貴重な環境だった。
 とりわけ記憶に残っているのは、川井稔氏が当時の係長で、初めて描いた図面を持っていくと「ちょっとここに座れ、図面はこうかくんや」と青焼きの矩計図に、赤のボールペンで訂正を、その結果、図面は見事に真っ赤になった。また、小さな体育館を任され立面計画に行き詰っていたとき、山本課長に「ちょっと図面を持ってきて、こんな感じでどうかな」と青焼き図に赤鉛筆でチョッチョッとスケッチ、目からウロコだった。
 営繕担当を8年、その間、2年ほど高松高等技術学校で建築科の教師をしたが、図面を描くのが楽しくて仕方のない時期に、上司や先輩、同僚、設計事務所や建設会社の皆さんに恵まれて、密度の濃い、有意義な時を過ごさせていただいた。

建築課建築指導
 昭和58年から7年ほど建築指導を担当、それまでは、建築の技術者として図面を描いていればことが足りる狭い世界にいたが、同じ建築の世界とはいえ、まったく性質の異なる仕事をすることになり、少しは行政の世界に足を踏み入れた。
 建築確認の審査・検査やホテル、旅館、物販店舗などの防災査察などが主な仕事、それまでの仕事では、特定の人との付き合いに限られていたが、付き合う相手が色々な設計者や建築主などに飛躍的に拡がった。
 ちょうど瀬戸大橋開通を控えた時期で多くの建物が建設されたが、特に琴平町周辺では大規模なホテルの確認申請が集中し忙しかった記憶がある。
 また、この仕事に携わってしばらくすると、法律は一般的な建物をモデルに規定を定めているが、実態は千差万別、画一的に法律の規定に合わせるよう求めることに疑問を感じ始めた。法律の趣旨を考慮したうえで、申請者の方にその趣旨や安全性の確保の必要性などを納得していただき、如何に落としどころを見つけるか。ダメなものはダメではあるが、考える余地のあるものは相手の意向を踏まえて解決方法をアドバイスするよう努めた。そうすることで、行政に携わる者の自己満足に陥ることなく、多少なりとも遵法意識の向上に寄与できると考えていた。
 振り返ってみると、昭和の時代は、どちらかというと建築することに軸足があって、無確認建築や違法建築のやり得意識があり、完了検査率も低調であったと思われるが、現在は、社会の法律に関する意識が向上したこと。住民の方の権利意識が高くなったこと。建築物の周辺環境に及ぼす影響などへの関心が強まったことなどから違法建築を許さない気運が格段に強まったと感じる。世の中の法律を守ろうとする意識に隔世の感がある。

その後の県庁
 平成に入って、住宅課、建築課、建築指導室、都市計画課...と次々と異動、バブル時代の大規模県有施設建設ラッシュや建築基準法の大改正、丸亀町の市街地再開発事業などに取り組んだ。その都度、組織内での立場が変わり、徐々に建築の一技術者から行政マンへシフトして行った。仕事の質も図面を描くことから関係者への指導・助言、組織の管理・運営に変わっていった。
 振り返ってみると、建築に関わる職場で様々な仕事をさせていただいた。その時々で多くの人々に支えられ、長いようで短い県庁生活であったが、思い返せば、若かりし頃の体験の印象が強く残っていた。

香川県建築住宅センター
 県庁を退職後、平成24年5月に株式会社香川県建築住宅センターに就職。
 これまで利潤を追求することのない役所の生活から、株式会社の経営に携わることになった。
 センターは主に住宅の建築確認・検査、住宅性能評価、住宅瑕疵担保責任保険などに関する業務を行っているが、多くのお得意様にお付き合いいただき、これまで経営は安定している。これも偏に平成12 年の会社設立以来、役員や社員の皆さんの努力の賜物と感謝している。
 ある人から「牧野さん、あんたは運がええな、ええ時に社長になっとるわ」といわれたが、おっしゃるとおり、県庁を退職するタイミングで入社し、会社は順調に利益を出しております。たまたま、こういう時期に社長に就任しました。
 引き続き、皆様のご要望に的確に対応することで、建築士事務所協会の皆様を始め、多くのお客様に末永くお付き合いいただき、この「運」をずっとつかんでいたいと考えています。今後とも、香川県建築住宅センターをご愛顧いただきますようお願いいたします。


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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 宮武茂基

親を大事にせーよ
宮武茂基
宮武茂基
(日本ER(株)高松支店)

 今から四十数年前、高松市役所に入った時期、私の顔を見る度「親を大事にせーよ」と説教気味に云う人がいました。
 父の今は亡き友人で、一代で財産を築くなどバイタリティに富、人生経験豊かな人で、一言々がユーモアに溢れ大変為になる言葉を数多く聞かされました。

建築課
 市役所では、当初建築課にて市有建物のプランニング・実施設計・構造設計・積算・工事監理と一貫して一つの建物を任され、創造の楽しさとともに喜びを感じる毎日でした。
 また、設計事務所・施工者の方々にお願いしている案件についても連絡係として奔走いたしましたが、設計事務所、工務店の皆様方の輝いていたお姿が今でも鮮明に思い出されます。皆様若うございましたし、教えも頂きました。オイルショックの折には膝詰めの交渉もありました。あれから四十年、事務所協会総会等でお会いする度に当時の事が思い出されます。

img-01-002.jpg 建築指導課
 建築課十年経過後、今日の礎となる法律を扱う建築指導課へ配属となり、定年まで二十数年間の長きに渡る建築行政に関わることになりました。
 丁度新耐震構造基準が施行された翌年で、プログラム計算が世に出始めたばかりでした。構造担当として毎日が勉強で、構造設計者の方々とはよく対立しました。先の東日本大震災においては、新耐震建物の被害はなかったということで法律改正の効果がでています。
 その後、建築関係法の周知啓発、市民の苦情や違反等の対応に従事、そして建築主事として、更に都市計画法に関する開発許可にも関わり、人それぞれの生活を左右する重要な判断を求められることとなりました。
 建築指導課では、様々な人たちと関わりました。エゴの固まりで好き勝手な要求をする人たちには価値観を見いだせなかったが、真面目に事を進めている人たち、本当に困っている人たちの要求には、何とか実現していただきたいと思うわけで、法律の規制とどう折り合いをつけるかが問題となるわけです。
 ここで、父の友人の言葉が活きてくることになったのです。
 「事業をしていると、一生に一度は無理を聞いて欲しい事があり、その時に手を差し伸べると、その人の将来を活かせることができる。」
 法律は誰のためにあるのか、建築主、企業側(設計者、施工者)、規制する側にとってそれぞれの行為に対して身を守ってはくれますが、やはり建物により影響を受ける利用者、周辺の住民等の為に有るとの立場で判断すると、答えは自然に出てくるものではないか、このように考えるようになり、これが私のポリシーとなり、都度々状況に応じた解釈をしてきました。

img-01-003.jpg  「法律判断は責任を伴い、反面その人の度量が試される。」
 事件は突然にやってきました。そう、耐震偽装問題です。確認処分した計算書をすべてチェック、幸い高松市内には該当するものは有りませんでしたが、やはり建築主事、課の責任者として気は揉みました。その後確認申請方法が厳しくなって、現場の融通が利かなくなるなど、建築士の尊厳が大きく損なわれることになったのです。

ERI入社
 その熱りが冷めぬうち、市役所を定年退職し、現在の日本ERI株式会社に縁があって入社することができました。
 確認部長としてなら何とか務まるのではないかと入社したものの、半年後支店長を命じられ、市役所での経験が営業に如何に活かされるか考える暇もなく、営業に飛び込むことになったのです。
 しかしながら、心配の中多くのご支援を頂き、昨年、会社起業時からの方針であった東証一部上場を果たし、高松支店もその一翼を担うことができました。
 これも一重に皆様方のご支援の賜物でございます。誠にありがとうございます。
 今日まで私の人生も順調に事が運び、これも親・ご先祖さまを大事にしてきた結果かと思っておりますが、大事にしなければならない親とは、いままでお世話になった方々ではないのか。「お世話になる人は、皆親」
 人は人の支えがあって成り立っているもので、世の中、自分だけで事が進んでいるのではない。幾つになっても人の世話になる。ということを肝に銘じて、父の友人の言葉が思い出された次第です。

最後に
 現職に就きまして、早5 年が過ぎました。慣れない営業に苦労しておりますが、会員の皆様のご支援を頂き、今日に至っております。
 引き続き頑張って参りたいと存じておりますので、どうかこれまで以上のご愛顧のほど宜しくお願いいたします。

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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 岡敬郎

激動の時代をこえて−
岡敬郎
岡敬郎
(創建設計事務所)

(時代背景の変遷)
 事務所を開設した昭和42年当時は、新幹線の開通、また東京オリンピック開催後の好況期、更にその後の大阪万博も開かれて、長期にわたる民需の大変盛んな時代でありました。
 それ以前の勤務先では、建築に関する巾広い分野の指導を受けたお陰で、開設後の実務についてはなんら支障なく、新しい技術の吸収に努めながら、建築主の要望に応えられるよう新しい建物の見学会等に参加したり、また新しい材料等のカタログ集めも大切な仕事の一環でありました。現在のようなインターネットでの活用がまだの時代であり、知識吸収には大切でした。どこの設計事務所も壁面いっぱいに棚を設え、カタログで満杯であったと思います。
 その頃の製図道具といえば、T定規と三角定規が主流であり、三角スケールは、尺貫法とメートル法が混在していました。その後にドラフターが主流となり、つい最近まで使用されていましたが、現在ではCAD化されて二次元CADが主流となっています。
 わが事務所でも、平成8年に、積算も可能な三次元CADを導入したのですが、実務には不向きで、基本計画や日影図程度に利用したぐらいで高価な物でしたが廃止に至っています。現在では二次元CADの利用ぐらいです。

(建築士事務所協会の歩み)
 香川県建築士事務所協会の設立は、昭和46年であり、事務所開設時(S42年)から設立準備のお手伝いに若輩ながら参加させて戴きました。
 これにより既存事務所との交流も広がり、貴重な経験に基づく御意見、御指導を戴き、後々の自分自身の活動にプラスになる体験でした。
 その後、全国的に協会が設立され、日本建築士事務所協会連合会が発足し、第1回全国大会が昭和51年に東京で開催され、今年の三重大会で第37回となって増々活発になっています。
 第20回大会は(H7年)中、四国ブロック協議会の御協力のもと香川県で開催され、香川会の会員にとっては貴重な体験でした。
img-01-002.jpg第20回建築士事務所全国大会 香川大会開催

30周年記念式典に参集された方々に挨拶
 開催後、会員同士の結束も強固なものとなり一つの統一された方向性が生まれたのではないかと懐かしく振返っている次第です。
 平成12年に私に協会会長にと指名を受けて青天のへきれきの思いになりました。  就任早々には協会三十周年行事が行われ、右往左往でしたが、皆様方の大変なる支援協力をいただき、また私も全身全霊をかけて無事終ったことには今に深く感謝しているところです。
 平成17年には耐震偽装事件がおきて、大幅な法律の改正があり、建築士事務所にとっては受難の時代に入りました。
 建築確認申請時の添付書類の簡素化、計画変更の範囲の拡大解釈等、考慮は出来ないものかと願う思いです。
 建築士事務所を取り巻く現状は、大変厳しい問題が増えており、協会幹部の皆様のご活躍によって改善がはかられる事を願っている次第です。

全国よりの参加者でいっぱいの会場

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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 市村健司

今迄のこと
市村健司
香川県建築士事務所協会 賛助会
市村健司
(日本ペイント販売(株))

 日頃は賛助会活動にご協力いただきまして、誠にありがとうございます。香川県建築士事務所協会 賛助会を設立し、5年目を終え6年目を迎えようとしております。時の経つのは早いものです。もうそんなになるのかと驚くばかりです。
 私も、仕事を始めて早38年目となりました。1975年に、四国ニッペ販売に入社し、配送業務等を半年ほど経験し、その後営業として活動するようになりました。当初は板金塗装関係の営業で、自動車補修業者への営業でした。塗料のことをあまり知らずに営業に出て行ったのでは困るだろうということで、或る補修業者に3日間ほど修行に行き勉強をさせてもらいました。その後営業を始めたのですが、笑い話しのようですが、面白かったのは、私が教わった業者に、翌日から質問を受けたことです。人間は不思議ですね、立場が変われば思い込みで何の疑問も持たず振舞うものなのですね。それから四国四県担当として各県に営業を始めました。当時は、パブリカトラックで出張、しかも今のように高速道路も無く、一般道を走っていく毎日でした。当時はクーラーも無く夏は暑い日々をすごしていました。
 それから数年し、建築塗料担当に配置換えとなり、建築塗装業関係のお客様へ訪問するようになり、経験を積んで、官公庁・設計事務所へもお伺いするようになりました。以前にも書きましたが、この事がゴルフを始めたきっかけでした。(未だに下手くそなゴルフしか出来ていませんが。)

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sanuki_member_no43_02.jpg 次に、香川県の販売店と塗装店の担当となり、建築現場を訪問し営業活動にいそしみました。その頃は、車も良くなり、オートマチィックでエアコン装備となり移動環境はぐっと良くなってきました。(でも、成績は良くなかったかもしれませんが)その頃色々な著名物件にも携わることができ良い思いでとなりました。
 高松空港・猪熊源一郎美術館などあり、現場の視察で、長野・東京・山形・東京ディズニーランドなど建物見学にも行きました。こんないいこともありましたが、レオマワールド建設時、設計管理会社に塗板の依頼を請け作成していましたが、建物数が多くまた、使用する色も派手な色ばかりで、枚数が多く、台風の中で全員早退する中一人居残り塗板作成をした記憶があり懐かしい記憶です。これほど多く作ったので、塗板で充分建物の外壁を覆うことが出来たと思います。また、その頃携帯電話が少し小型になり発売され始めた頃で、持っている人も少なかったですね。現場で緊急時は持っている方に借りた覚えがあります。

sanuki_member_no43_03.jpg 平成9年に四国ニッペ販売から日本ペイント販売と社名変更し、場所も高松から宇多津町へと移転することとなりました。これには参りました。通勤距離が家から18Km であったのが、42Km と倍以上となり大変でした。しかしこのおかげで早起きするようになり良かったかなと思います。しかし三文の徳はあったかどうか?
 しばらくし、建設担当ということで、遮熱塗装工事・耐火塗装工事・住宅塗替も行うことになりました。
 そしてあと数ヶ月で、第1ステージ終了です。
 これから、第2ステージですが、色々な道をゆっくり考えようと思います。
 今日まで、協会の先生方、諸先輩方、今まで知りあえた方々のお世話になり、育てていただき本当にありがとうございます。まだまだこれからも長い道のりです。
 人生すべからず青春頑張ろうと思っております。一拾百千万の実行でいきます。
 最後になりますが、香川県建築士事務所協会香川県建築設計協同組合 賛助会の今後のご発展と皆様方のご健勝をお祈りしております。


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-(会員シリーズ)過ぎし日を語る - 武田美治

太公望

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㈳香川県建築士事務所協会賛助会
会員 武田美治
(武田建設株式会社)

 「釣り好きは短気」と言われる。狙っている魚が 釣れないと、場所を変え、潮を待ち、仕掛けを変え、 餌も変え、それでも釣れないと、竿を変え、リール を変え・・・。ずいぶんと費用のかさむ遊びである。 しかし、当の本人は娘の離乳食のためだとか、ばあちゃんにおいしい魚を食わすためだとか、勝手に思 い込んでいるので、罪悪感はない。いつからこんなにも釣りに" ハマッタ" のだろう。決して私の父が 釣り好きというわけではなかった。逆に父は殺生が嫌いだった。壇ノ浦の料亭で出てきた車エビを海岸まで持って行って逃がしてやったとか、加工場の鉄筋の上に糞をする鳩を捕まえては大歩危までトラックに積んで離してやったりしていたのをうっすら覚えている。思い起こしてみると最初の釣りの経験は、 小学生の低学年の頃、木太町にあった田んぼの用水路で手のひらぐらいの鮒を釣ったのが快感の始まりだったと思う。昔は雨が降れば現場を休むこともあった。小雨の降る、けれども明るい午前中、現場から帰ってきた親戚の小島鉄筋の社長に竹の延べ竿 (ガイドもリールもない先にテグスをくくりつけただけの釣り竿)を貸してもらい、加工場横の田んぼの畦でミミズを掘って釣りに行った記憶がある。もちろん今はコンクリートの用水路になっているだろ うが、50年近く前の田んぼの用水路は古き良き時代の趣があった。会社から歩いてすぐの場所だったと記憶しているが、着いてみると何人か釣りをしている人影があった。教えられるままに竿を川面にかざ し、精一杯の力を込めて竿を握っていたと思う。ウキが沈み、突然手のひらに伝わるブルブルとした感覚。忘れられない一瞬だった。 

 釣り好きのことを「太公望」というらしい。ネットで調べてみると、その昔、中国の渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えたという話に由来するとされるらしい。この故事にちなみ、日本では釣り好きを「太公望」と呼ぶ。江戸時代には「釣れますか などと文王 側により」という川柳も作られている。一方、中国で「太公望の魚釣り」と言えば、「下手の横好き」と言う意味が込められているという。小学生の時のこの経験が私を 「下手の横好き」にしたのは間違いない。 

 中学、高校と釣りには縁のない生活を送っていたが、たまたま知り合った友人が私に輪を架けたような「下手の横好き」だった。当時オキアミという南氷洋でとれるエビの冷凍が売り出され始めた。小学生の頃から、魚の餌はミミズだと思い込んでいたが、 この魔法のオキアミを岸壁からパラパラと撒きながら釣るとおもしろいように魚が釣れた。朝日町の突堤でチヌの入れ食い、庵治の河口でグレの入れ食い、 壇ノ浦の東岸でグレとチヌの入れ食い等々。高松周辺の釣り場はほとんど頭に入っていた。スズキの良く釣れるとっておきのポイントでは、「釣れますか」 などと人が寄ってきても、魚が掛かっているリールをフリーにして「いや釣れませんわ」などとやっていたと思う。 

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 釣り好きの私が就職したのは東京の同業大手。しかし赴任先は海の無い埼玉県。日曜日に釣り堀に行 くしか無いが、鮒なんぞは小学生がミミズでも釣れると思っていたから、馬鹿らしくて釣り堀には行く気がしなかった。入社して1年ほど経った時当時の 親方に誘われ、渋々近くの釣り堀に行くはめになった。餌はマッシュ(練り餌)。仕掛けの手ほどきを 受け、いざヘラブナに挑戦。しかし釣り堀の魚はスレていて(人間が釣り 上げては逃がすので) なかなか釣れない。いや全く釣れない。隣で近所の中学生とおぼしき子供がピシッと釣り 上げる。最初はまぐれ、 まぐれと思っていたが、三枚、四枚と差を付けられると「ウッ!」 と焦る。短気な太公望は仕掛けをいじり、餌の練り具合を変えて挑戦するが、隣の子供は順調に差を広げる。屈辱的な日だった。釣り 堀の親父がやってきてもニッカズボンにパンチパーマの作業員風には声を掛けてこない。 一緒に行った親方と二人ボウズで(一匹も釣 れないこと)退散した。 帰りの車の中で「中学生の持っていたウキがいいウキだった」とか 「ハリスが太すぎた」とか「場所が悪かった」などと言い訳してもやっぱり悔しい。帰りにはいつもの釣具屋で練り餌を何種類も買いそろえ、次の休みに備えたものだ。釣りは「ヘラ鮒に始まりヘラ鮒に終わる」と言われる。その後も何度も挑戦したが、2 年間でついに、くだんの中学生には勝てなかった。 何でもその釣り堀でも5本の指に入る強者らしい。 勝てない勝負は気が乗らない。埼玉の後半は、もっ ぱら一人で野池に通うようになった。もともと食えないヘラ鮒には興味が涌かないのだと思い込むよう にした。 

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 3年ほど海釣りに遠ざかっていたのだが、なにも埼玉で仕事と釣りばかりしていたわけでは無い。 ちゃんと結婚にもこぎ着けた。新婚旅行は言わずとトローリングのできるハワイとした。細君には申し訳ないが、新婚旅行の思いでは、一番は最初で最後 のトローリングだった。朝6時過ぎ、ビールやサン ドイッチを買い込みチャーターしたクルーザーに女房と乗り込んだ。船の名前は「KAHUNAKAI」な ぜか、未だに忘れない。狙うはマーリン(カジキマグロ)。あちらの小説に出てきそうな顎髭を蓄えた船長が固い握手で「グッドラック!」夢にまで見たマーリンに会えるのだと信じていた。これまで私は 船に酔ったことが無い。瀬戸内海はもちろん、室戸 岬沖のうねりの中でも平気だった。しかし、港を出 て1時間くらいでハワイ島は見えなくなり、360度の水平線。海の色は絵の具を絞り出したような紺碧。周りに舟影は見えない。当たり前だ、マーリンのシーズンでは無かったのだ。しかもハワイ沖のう ねりは半端ではない。3時間の容赦の無いローリン グで不覚にも完璧に酔ってしまった。心配なのは自分より船に弱い女房だ。フラフラしながら奥の女房 に声を掛けようとすると、えっ?涼しい顔でサンドイッチを頬張っている。こちらが声を掛ける前に「だ いじょうぶ?」・・・そうだ!女房はヨット部だったのを思い出した。それ以来未だに頭が上がらない。 大量に買い込んだビールは船長とクルーが旨そうに飲んでいる。その時だ、2本流していた疑似餌の一 つが「ジーッ」と大きな音を立てた。金髪のクルーは私にファイティングチェアーに座れという。カジキマグロ用の剛竿とペンの両軸リールを抱え込むよ うにして座り込んだ。いよいよファイトだ。鉄筋で鍛えた全身に力が入る。D51を持ち上げるほどの力を込めて竿を立てる。「あれっ?」何とも簡単に竿は90度に立った。夢にまで見たマーリンもこの程度であったか!クルーはさかんに「マヒマヒ!」「マ ヒマヒ!」という。ハワイ語ではマーリンのことを そう呼ぶのかと思ったが、なんとも弱々しい響きではないか、しかもえらくリールが軽い。クルーはもっ と早く巻けという。言われるままに100mほど巻き 取った時奥からあの船長がギャフ(魚を引っかける道具)を持ってきた。いよいよだと思った瞬間、船長が言った言葉を生涯忘れない。「アウチ!!!」私は そのマヒマヒの背中しか見ていない。船長がギャフ を打ち損なったのだ。すぐに呆然とする私の方を向 き返り「アイムソリー」それぐらいの英語は私でも分かる。しかし日本語の「なにやっとんや!どあ保」 がとっさに英語で出てこない。こんな事ならもっと真剣に勉強しとけば良かったと思ったが、とっさに出た言葉は「ノープロブレム」だった。情けない。 後で分かったが「マヒマヒ」は「シイラ」のこと。 そんなものなら小豆島でも釣れる。都合のいいこと に私が釣り逃がした魚を女房は知らない。その夜レストランで「マヒマヒのステーキ」を注文し、噛みついてやった。 

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 結婚後、長女が誕生して高松に帰った。ヘラ鮒もマーリンもいらない。やっぱり瀬戸の小魚が釣っても食っても最高だ。私は長女の離乳食をガシラの煮付けと勝手に決め込み仕事が終わってから、よく釣行した。ヘラ鮒ほど難しくないし、マーリンほど力がいらない。おかげで3人の子供は全員が魚好きになった。子供はどんどん成長し、ひとり、ふたりといなくなった。今はローリングにめっぽう強い細君と二人。釣りにもあまり行かなくなった。日曜日に近くのスーパーで買ってきた塩鯖が手軽でおいしい と思う。太公望は「下手の横好き」趣味として、たまに竿を担いで、気の合う友と気軽に釣行できれば満足。年を重ねると、もちろん体力は衰え、ゴルフボールも飛ばなくなっ た。味覚も鈍くなり、 目も薄くなってきた。 しかし小学生の時に初めて味わったあのブルブルとした快感は、今も全く変わらない。太公望万歳。 


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日本ERI(株)高松支店そして隠居

日本ERI(株)高松支店そして隠居

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元日木ERI㈱高松支店長
鈴 木 正 典


 昨年11月に栗林公園に無料で入場できる権利を取得した。平たく言えば尚齢者の仲間入りをしたということである。
 この現実を肯定、県庁とERIの長いサラリーマン生活にピリオドを打つことにした。 この原稿が本誌に掲載され、皆様のお目にとまる2ヵ月後には悠悠自適の日々を送っているはず(?)である。

【入社】
 ERI入社への道は、県庁在職時の平成16年5月にERI広島支店長と名乗る人物の突然の訪問を受けたことが発端である。
 高松に支店を開設したいので、支店の経営に参加しないかというものであった。 当時まだ退職後の確たる計画は無く、隠居するか、もし働くとすれば、私自身が設立に関わった香川県建築住宅センターになるのかな、という程度の漠然としたものであったが、時期も早く、適当に話を聞いた程度であった。
 11月に2度目の訪問があり、それ以降の波状攻撃はかなり熱心であったが、設立に関わった会社の競合会社への就職には抵抗感もあり、色よい返事は出来なかった。
 そのうち、岡山県庁の建築職で私の知り合いが退職後岡山支店を開設して成功しているとの情報がもたらされた。
 当人に電話で様子を訊<と、「その気なら結構面白い仕事だ」とのことであり、また支店開設に参画できるタイミングはまず無いこともあって、最終的にお世話になることになった。
 県庁卒業の翌日(平成17年4月11」)には入社し、支店開設までの間、岡山支店へ実務研修に通いながら開設準備を進めていた。
 ERI職員としてデビューしたのは5月の士会高松支部総会で、初めての営業は慣れぬこととてなかなか難しかったのを記憶している。
 県庁時代は役人という立場から、民間の方たちとの付き合いは私的な感情等を極力排除した硬いものであったと思う。
 入社を考慮していた時は、それが裏目に出はしないかと心配したものであるが、皆様暖かい方達で、過去の私の至らなさをおくびにも出さない大人のご対応を感謝したものである。
【支店開設】
 支店の場所が決まり、スタッフも揃い、7月1日にいよいよ支店開設の運びとなった。 当初は確認業務のみでのスタートで、実質5
人というこぢんまりした職場であった。
 馴染みの無い名前の所為か、当初出足は悪かったが、そのうち忙しくなり、例の姉歯事件が起きた頃は、私自身でいえば昼間は現場検査、帰ってからその事務処理、確認部長として確認等の決裁、そして事務系の決裁など、退社は毎日10時11時というハードな日々であった。
 民間とはいえ、まさかこれほどとは思っていなかったが、入社した以上こなすしかないとの思いから皆で頑張った時期であった。

【大事件】
 その年の11月18日に国土交通省が前日発表した構造計算書偽装事件(いわゆる姉歯事件)に関する報道が大々的になされた。
 大事件の幕開けであり、2年後の基準法改正につながる建築界受難の時代の始まりである。
 
 当社への影響は薄いと高を括っていたが、競合会社から当社が隠蔽したとの発言があり、社長の記者会見また国会国交委員会での参考人招致と騒ぎの真っ只中に据えられてしまった。
 報道後直ちに社内の構造担当で組織したチームが計算書の正否、手口等につき検証を開始、結果としてプログラムの不備をうまく衝いた非常に巧妙な偽装が発見され、通常の審査では発見できないレベルであることが判明した。
 当社に非は無いと思われたにも関わらず、従来正しいとされてきた審査方法で良しとはせずに、法の手当てを待たず、直ちに再発防止に向け審査方法の改善を開始したことには感心したものである。
 現に、改善策を実施したため、労力。時間・費用を含め経営的にはかなりの負担となった。
 にもかかわらず、翌年に確認業務に関して不届きこれ有りとして、一部業務停止の処分を受けたことは、さらに大きな痛手となった。 言い訳をする気は無いが(実はしようとするときの常套句)、当社のみならず他機関・行政も含めて確認審査の手法は全国一律のものとして認知され、運営されてきたものである。
 そもそも確認審査は法制定時から・・・。
 という堅い話は肩がこるし、自分の浅学を露
呈することになるのでやめておく。
 翌19年の基準法改正、また20年のサブプライムローン問題、さらに21年のリーマンショックと立て続けに大きな事件が発生し、私の入社以来の5年間、建築界にとって安定した経営状況を維持することが困難な時期だったと思う。
 「行政から民間へ」と、まるでどこかの政党のお題目の字面そのものの転進をした私にとっては、民間の厳しさを味わった日々であった。
 支店開設2年後には支店長としての重責を担うことになったが、能力に疑問符の着く身にとっては、皆様の暖かい視線や他部局からの応援また支店職員に支えられてやっとこなしてこられたというのが実感である。
 
 実際、高松支店が苦境の際、数多くのお客様に助けていただいたことが非常に有りがたく思い出される。
 かといって苦しい事ばかりではなく、民間ならではの貴重な経験.楽しい体験も沢山させてもらったのだが、誌面の都合で割愛する.
【隠居】
 4月にはサンデー毎日の世界が待っているのだが、さて何をして生きていこうか。
 県庁退職より大分前に、ある席で先輩方から「隠居するまでには趣味と友達をものにしろ」との助言を頂いたことがある。
 その時は大丈夫と思っていたが、少し前までと状況が変わったことに気がついた。
 前に本誌で紹介させていただいたが、私の趣味の経歴は種々取り混ぜて十指に余り、その中で長く続いたものが合唱とテニスである。
 その魅力は素晴らしい和声に出会えることであり、青空の下でのナイスショットであるが、それが長く続いた理由を考えると、どちらも雑多な職種の人たちの集まりで利害関係が無く、程良い人間関係があることであろう。
 飲み友達として、また家族同士での付き合い等、楽しい仲間がそこにはいるのである。
 座右の銘は「継続は力なり」。
 しかし、さすが民間は想像以上に忙しく、合唱もテニスも無縁の日々である。
 座右の銘は5年以上のご無沙汰でお題目のみとなり果て、隠居するそのとき、楽しい仲間は快く迎えてくれるか?復帰できる力は残っているか?などと思い悩む昨今である。
【ご挨拶】
 在職中は皆様には大変お世話になりました。 こうして無事卒業できるのも一重に皆様のご温情によるものと感謝いたしております。
 本当にありがとうございました。
 これからも日本E RI高松支店をご指導ごご愛顧賜りますようよよろしくお願い申し上げます。

 


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一(会員シリーズ)過ぎし日を語る--小 竹 義 孝


(会員シリーズ)過ぎし日を語る---

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小竹興業㈱会長

 小 竹 義 孝

 

 私が学生生活に終わりを告げ、社会に第一歩を踏み出したのは、昭和38年、東京オリンピックが開催される前の年でした。 新幹線も整備され、首都圏では地下鉄や高速道路が次々と拡張され、高層ビルも立ち並び、建設業界は、正に、高度成長時代の先端を行く業種として、最盛期の年でした。建設業界では、特に、公共工事において、庁舎、町村役場、学校などが、木造から、鉄筋コンクリート造に建て替える時期でして、当時は、「生コン」も無く、「ポンプ車」も無く、現場練りのコンクリートを「タワー」を建て、「ウインチ」にて吊り上げ、「カート」車にて打設し、躯体を築き上げていく時代でした。仕上げの仕様に関しては、サッシはスチールOP、外壁はモルタル塗リシン吹き付け、内壁はモルタル鏝押さえVP、床はモルタル鏝磨きPタイル貼り、というのが、一般的な仕上げで、左官工事が、建物の精度良否を判定する大きな要因を占めていました。


 私の卒業論文は、「左官工事における人間工学的研究」というテーマでした。建築工事も、昨今では、仕様が大きく変わり、左官の作業量も少なくなりました。外壁はカーテンウォール、内壁は軽鉄下地のボード張り、天井は軽鉄下地のボード張り、床はOAフロアー等、「左官工」の出る幕はほとんどありません。私が、この業界に入ったその当時は、壁、天井、床など、内装の仕上げの精度は、左官工の技能に大きく圧し掛かり、いかに、職人がその技能を発揮し、粘度の良い、きちっとした、いい仕事をするかによって、建物の良否が評価されたものでした。左官工は、経験と器用さが必要な大変難しい業種ですが、特にその作業は全身を使って作業する過酷な重労働です。人間の人体機能には、それぞれ限界があり、首はここまでしか曲がらない、手首もこれ以上曲がらない限界角度があり、腕、腰、足などそれぞれ、これ以上曲げられない限界があります。「左官工」の職人は毎日、この体を駆使して作業をしています。「左官工」の一連の作業の流れを調査する為、当時私は約一ヶ月の間、人手業者の作業現場に入れてもらい、「左官工」が壁にモルタルを塗る作業、床を鏝押さえする作業、また天井にプラスターを塗る作業、等を毎日毎日ビデオに収録し、例えば左官が壁にモルタルを塗る場合、鏝を持った手首の角度はどの角度が最もも無理が無く、効率よく作業しているか、床を押さえる場合は腰の角度は、どの位置が長く継続できるか、梁下プラスターを上向きで作業する場合、腕の角度はどの角度が一番効率が良い動きなのかなどムダ、ムリ、ムラの無い動きを分析し、作業効率、精度、持続性を高める為の資料を作成しました。何とかレポートをまとめ、卒業することが出来ました。


 その後、左官工事における実技の冊子に取り上げられ、「日本左官業組合連合会」の技能講習会の資料として、左官上を目指す若者に利用され、技能向上に貢献したと聞きました。
 IT情報化社会の今日、建築業界もこの半世紀の問に大きく変遷し、建物は軽装化され免震構造、超高層へと技能よりもIT技術の時代になってまいりました。しかし、いつの時代になっても、建築の造形の本髄は、大工や左官など技能の集大成であり、継承していかなければならないと思う

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過ぎし日を語る

過ぎし日を語る

(株)植原建設一級建築士事務所

代表取締役会長 植原博文

 

少年時代、間があれば野山をかけ廻る、

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