雉鳥工業株式会社
代表取締役
雉鳥 進
今は香川大学農学部になっているが、私の時代は木田農林学校という名称だった。新田の自宅より歩いて通学した。
同級生のほとんどは豪農の息子であり、卒業後は県庁、農林省関係機関、または教員などなどに就職した。我が家も農家だが、七反ばかりで大きいとはいえないが、農業に専念しようと考えていた。
しかし請われて、水道工事業のアルバイトをすることになった。このアルバイト勤務が現在の仕事の出発点になっている。
当時、米の値段は流通価額は一俵(四斗)が4500円だったが、県庁でもらう月給はその値段に満たなかった。だから勤めるよりも家業の農業に精を出そうと思っていた。
最初に勤めた職場は旧軍人の将校が起していたので、自分では直接携わろうとしないで、何もかも命令で部下まかせである。経理だって素人で、しかも元軍人だからさっぱり頭がまわらない、結局3年でつぶれてしまうことになった。
しかし請われて同じ仕事に就いていた。水道工事は職人としての技術仕事が随所に必要な業種であって、今のように組み立て仕事ではなかった。パイプにねじを切るとか、曲げるとか、ほとんどが技術を要する職人の腕をもっておかねばならない。
本業は家業の農業でありながら、そのうちにこの仕事は資格をとらないと仕事ができない法律が誕生した。管工事技術者、消防設備士、浄化槽設備士、などなどである。次々に多くの資格を取っていった。
メーカーの工場視察や研修も度々だった。
そんな時代の中で、個人業を有限会社に改組することになった。そこでは建築と水道事業の二つの柱に分かれ、水道部門の担当をまかされることになってきた。
業界も段々整備化され、業界団体も組織化がすすみ、またリクリエーションや親善のための同好会も生れることになった。
そこからゴルフとの縁が生れるわけで、他の組織の人たちとの交流も行なわれ始めた。ひとときは遠征なんかが定例的に催される時代であった。
海外まで足を伸ばしてプレーを行なったが、タイでは一人のゴルファに4人のキャディさんが付くのにはびっくりしたものである。ボールの行方を見る係り、ボールの汚れをとり、グリーンの具合を示す係り、太陽が照って暑いので日傘を差し椅子を持ち歩く係りと、実に贅沢で、王さんみたいな扱いである。今更ながら当りも多くキップを販売してるようだ、一度など据わる席が無くなっていて私の席が無い。ところがナント、操縦席内の椅子に案内されたのにはこれまた驚いた。日本ではとても考えられな
いようなことが他国ではあるのだ、これが世界なんだと妙なところで感心した。
いま、私たちの業界ではグローバル化といっているが、今は水道だけが専門というわけには行かず、空調、浄化槽、冷房暖房、排水、下水エトセトラ、すべてに対応するように勉強をしていかなければならない時代になっている。もちろん使う材料もシステムもどんどん変化がすすんでいる。設備設計も一級建築士の資格を持たないと出来ないことになってくる。
業界を取り巻く環境も極めて厳しい現状である。それだけに仲間たちは共に頑張っていかねばと声を掛け合っている昨今である。