山 﨑 潔
日本アートグラフィック
日本アートグラフィック
思えば続くこと30年を超えている。
古い歴史的な集落、町並みを訪ねて、土地の人たちと話し込み、また写真に残す行為を、ライフワークの如くに続けてきた。
最初は愛知県下の宿場町に近代的な商店が新築されたのがきっかけだった。
時代には逆らえないが、われわれの先祖が長い歴史を重ねてきた文化財でもあるこの町並みが、やがては面影もなく変貌して行くのではないかと頭をよぎった時だった。
私は学校教師から一転、新聞社(全国紙)に勤めていた時期があった。行動がひろくなったので比較的そんな場面を目にすることも少なくなかったのだが、歴史的な文化財にも興味をもっていた。
年に最低2回は恩人、友人、お世話になっている方々には、ご挨拶の年賀状や暑中見舞いを差し上げるのだが、紋切り型の一般的な形では何か物足りないものがあった。
古い歴史的な集落、町並みを訪ねて、土地の人たちと話し込み、また写真に残す行為を、ライフワークの如くに続けてきた。
最初は愛知県下の宿場町に近代的な商店が新築されたのがきっかけだった。
時代には逆らえないが、われわれの先祖が長い歴史を重ねてきた文化財でもあるこの町並みが、やがては面影もなく変貌して行くのではないかと頭をよぎった時だった。
私は学校教師から一転、新聞社(全国紙)に勤めていた時期があった。行動がひろくなったので比較的そんな場面を目にすることも少なくなかったのだが、歴史的な文化財にも興味をもっていた。
年に最低2回は恩人、友人、お世話になっている方々には、ご挨拶の年賀状や暑中見舞いを差し上げるのだが、紋切り型の一般的な形では何か物足りないものがあった。
そこでやがては失われて行くであろうこれらの記録を、文章と写真でポストカードにして、ご挨拶にしていこうと、「町並みシリーズ」が形づけられることになったわけである。
最初の頃は春夏秋冬、年間に4回ほど出していたころもあった。
日本全国といいたいが、どうしても日本の中央部から西が圧倒的に多い。これは日々仕事をしているなかで行うので、長期にかかって行なうことはでき難い。2日3日を使う範囲という制約があるからだ。
写真を写すだけなら日本全国どこへでも、ということも出来るのだが、土地の人たちと直接接したり、土地の資料館や行政の人たちとも話しを聞くこともするので、思いのほか、所要日数が必要なのだ。
土地によっては何回にも分けてたずねている場所もある。1回の訪問だけでは時間が足りなくなるからだ。
こんなことをやってるうちに、今は古い町並みだけではなく、集落が地中の奥深くに埋もれてしまっている土地にも関心が高まってきた。
地中の中に入ってしまったといえば、外国にはあると知っていても、まさか日本には、という声を返して来られる人は少なくない。
しかもそれが思いのほか近いところに二つもあるというのに。
先ず一つは広島県の東端に位置する福山市。
瀬戸内海に流れ込む芦田川の川の底に、中世の町がそっくり存在していたのが発見されているのを知ったとき。
川の底に数世紀もの間、眠りつづけてきたのである。平安、鎌倉、室町時代の町並み、生活が残されていたのである。
最初に注目され始めたのは、昭和初期に行なわれた芦田川の改修工事の際であった。シャベルにすくわれて、あっちこっちで古銭が出てきて、何百枚、何千枚という合計になっていった。壷や皿などのほか、五輪塔のお墓も出てきた。
大洪水がつづいて、町並みが大量の土砂によって埋まってしまったことが判明した。
私もそれを知らされたときにはビックリした。資料が残されている同市へとんでいったのを覚えている。
1973年以来発掘調査が延々つづき、中世の民衆の生活の様子も復元されることになり、博物館も設立されている。
そこには南北朝時代の草戸千軒の町並みの一角が実物大で見ることができる。
ここでは当時の市場や職人町の人たちの住居や、畑、墓地といったものまで復元されている。職人たちの家の中での生活とか、仕事に使っていた道具類、などなど、食べ物まで当時の様子がうかがえる。
島根県の東部に廣瀬町がある。ここに富田川が流れている。
この川の東側に河口近くから上流へ向って、数キロにわたって富田城下町があったという。
この川は洪水にみまわれているうちに天井川になっていった。そして1666年(寛文6年)、この城下町は川の大反乱によって壊滅されることになった。
川底に埋没してしまった中世の城下町は、更にこの上に上流で砂鉄の採取が行われ始めたことで、流砂が堆積して埋もれていったのだが、地中の深いところより下駄が発見されたことから調査がはじまり、昭和40年からは青磁・白磁・染付といった磁器類、水瓶、擂鉢、などの備前系の無釉陶器、墓石、瓦、さい銭などなどが掘り出されてきた。また井戸まで見つかっている。
廣瀬の地名の由来は、洪水によって山よりの大量の土砂に覆われて、家一軒もない見渡す限りの広い広い瀬になってしまった、そこから付いた名前という。
私の町並みへの興味は文化財というものに留まらず「日本のポンペイ」というべき分野にも関心がひろがって行き始めたのには、これらを知り始めて以来である。
最初の頃は春夏秋冬、年間に4回ほど出していたころもあった。
日本全国といいたいが、どうしても日本の中央部から西が圧倒的に多い。これは日々仕事をしているなかで行うので、長期にかかって行なうことはでき難い。2日3日を使う範囲という制約があるからだ。
写真を写すだけなら日本全国どこへでも、ということも出来るのだが、土地の人たちと直接接したり、土地の資料館や行政の人たちとも話しを聞くこともするので、思いのほか、所要日数が必要なのだ。
土地によっては何回にも分けてたずねている場所もある。1回の訪問だけでは時間が足りなくなるからだ。
こんなことをやってるうちに、今は古い町並みだけではなく、集落が地中の奥深くに埋もれてしまっている土地にも関心が高まってきた。
地中の中に入ってしまったといえば、外国にはあると知っていても、まさか日本には、という声を返して来られる人は少なくない。
しかもそれが思いのほか近いところに二つもあるというのに。
先ず一つは広島県の東端に位置する福山市。
瀬戸内海に流れ込む芦田川の川の底に、中世の町がそっくり存在していたのが発見されているのを知ったとき。
川の底に数世紀もの間、眠りつづけてきたのである。平安、鎌倉、室町時代の町並み、生活が残されていたのである。
最初に注目され始めたのは、昭和初期に行なわれた芦田川の改修工事の際であった。シャベルにすくわれて、あっちこっちで古銭が出てきて、何百枚、何千枚という合計になっていった。壷や皿などのほか、五輪塔のお墓も出てきた。
大洪水がつづいて、町並みが大量の土砂によって埋まってしまったことが判明した。
私もそれを知らされたときにはビックリした。資料が残されている同市へとんでいったのを覚えている。
1973年以来発掘調査が延々つづき、中世の民衆の生活の様子も復元されることになり、博物館も設立されている。
そこには南北朝時代の草戸千軒の町並みの一角が実物大で見ることができる。
ここでは当時の市場や職人町の人たちの住居や、畑、墓地といったものまで復元されている。職人たちの家の中での生活とか、仕事に使っていた道具類、などなど、食べ物まで当時の様子がうかがえる。
島根県の東部に廣瀬町がある。ここに富田川が流れている。
この川の東側に河口近くから上流へ向って、数キロにわたって富田城下町があったという。
この川は洪水にみまわれているうちに天井川になっていった。そして1666年(寛文6年)、この城下町は川の大反乱によって壊滅されることになった。
川底に埋没してしまった中世の城下町は、更にこの上に上流で砂鉄の採取が行われ始めたことで、流砂が堆積して埋もれていったのだが、地中の深いところより下駄が発見されたことから調査がはじまり、昭和40年からは青磁・白磁・染付といった磁器類、水瓶、擂鉢、などの備前系の無釉陶器、墓石、瓦、さい銭などなどが掘り出されてきた。また井戸まで見つかっている。
廣瀬の地名の由来は、洪水によって山よりの大量の土砂に覆われて、家一軒もない見渡す限りの広い広い瀬になってしまった、そこから付いた名前という。
私の町並みへの興味は文化財というものに留まらず「日本のポンペイ」というべき分野にも関心がひろがって行き始めたのには、これらを知り始めて以来である。